るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十八 粛正(2)

 数日後、洋子は宿直だったこともあって、講義後の雑談に遅くまでつき合うことが出来た。光源氏のことについて、随分詳しい話をしている。
「それはそうと、光源氏を書くときに誰を一番参考にしたと思う?」
「歴史上の人物で、ですか?」
「それもあるし、物語の登場人物でもいいよ」
伊東の言葉に、その場の隊士たちは考え込んでしまった。
「誰、っていう特定の人物がいるのかなあ」
「中盤の繁栄ぶりは藤原道長みたいだが、道長は別に都落ちなどしなかったからな」
「誰か源氏でそれらしい人がいるって聞いたけど、名前何だったっけ?」
毛内や篠原が発言する中で、伊東の実弟の鈴木三樹三郎が頭をひねっている。洋子はふと思いついて言ってみた。
「伊勢物語に、東下りっていう話がありますよね」
「ああ、あるね」
「須磨落ちの話って、あの付近の話を参考にしてるんじゃないですか? その前に主人公がどこかのお姫様を誘拐するっていう話があるんですけど、それって立派な大事件ですよね。それで伊勢物語の方は主人公が居づらくなって東に行くんでしょうけど、光源氏の場合は西に行く、と」
「なるほど、主人公の『おとこ』が同一なら、その付近はそれで説明できるね」
伊東は、表面上頷いた。内心ではこう思う。
『それにしてもいきなり伊勢物語が飛び出す辺り、この子はやはりただ者ではないな。どこでそんなものを学んだのか』
「だが、同一人物だという根拠は?」
そう訊いたのは武田だった。
「根拠も何も、伊勢物語が『おとこ』の一代記の形を取っているのは事実でしょう」
「確かに、最初の段が初冠で始まり、終わりも相応の形を取っているのは事実だが、その間の話がそうだとは限るまい」
試験をするような言い方に、洋子はムカッとした。一気にまくし立てる。
「ですが収録されている歌の多くが六歌仙の一人である在原業平のものである以上、『おとこ』が彼を指していると見るのはある意味で当然でしょう。この物語の作者が『おとこ』という表現を使ったのは、あくまでも一般化のためです。紫式部がそういうことを知らなかったとは思えませんし、知っていたとすれば、当然ながら参考にした人物の一人であるのは間違いないでしょう」
「それはそうだろうが、在原業平は貴族としては決して身分は高くなかった。参考にしたにしては──」
「人物の一人、と言いましたが。──それに」
武田の意見を途中で封じ込めて、更に言う。
「在原氏は、嵯峨天皇の兄の平城天皇の子孫です。一度上皇になったんですが、天皇位に復活しようとして薬子の変で失脚したため、子孫が臣籍に下るのが早かったようなんですが。つまり本来の生まれは悪くなく、この待遇はある意味で不当とも言えますが、これはまあ仕方ないでしょう。──この程度のことも知らなかったんですか?」
武田は反論できない。その様子を見て、篠原あたりは忍び笑いを漏らしていた。武田はいつも色々と難癖を付けてくるのだが、こうまで見事に反論されては黙るしかない。
「天城君、相変わらずよく知ってるね」
内心少し舌を巻きつつ、伊東がそこでそう声をかけた。洋子は正面を向いてはっとなり
「あ、いえいえ。伊東先生に誉められることじゃないです。私もかなり前に習ったっきりで、さすがに細かいところは覚えてないので」
「──かなり前、というと?」
「試衛館に来る前、実家で──」
とまで答えて、今度は自分の台詞にぎくっ!となる。
「あ、いえ、父がそういうの何か好きで、色々教えてくれたんですよ。あははは」
今となってはほとんど役に立ってませんけどね、と洋子は笑って言った。無論作り笑顔であって、内心びくびくしていたのだが。
「じゃあ、古典に興味持ったのもその父君のおかげ?」
「──えっと、まあ一応そうなると──」
そこまで答えたところで、部屋の外から気配がする。扉を開けると
「洋はいますか」
「──何か用ですか、斎藤さん」
洋子は目一杯厳しい口調で言ったが、斎藤は完全に無視して伊東に
「ちょっと話が長引き過ぎていますもので。そろそろ──」
本来、洋子は宿直である。そちらの仕事が優先されるのは当然のことで、さっさと職場に戻れと言いたいらしい。伊東は彼の背後の夜空を見やって
「ああ、そうですか。ではこの辺で解散としましょうか」
あっさり頷いた。そして斎藤が部屋を出た後、改めて終了の宣言をする。それから荷物をまとめて部屋を出た洋子に、声がかかった。
「さっさと話をまとめて出てこい、この阿呆が」
「仕方ないでしょう。武田先生が間違ったことをおっしゃるから」
訂正しないと行けないんです、と洋子は説明した。
「だからと言って遅れていいとは言っとらん。──それに、ムギワラのクズコだか誰だか知らんが」
斎藤は応じて言った。どうツッコめばいいんだろう、と洋子が思っていると
「そうやって役にも立たん妙な知識をひらけかすから、どこぞの公卿に会いに行く羽目になるんだ。妙な事態に巻き込まれたくなかったら大人しくしてろ」
数秒、返事が出来ない。やっとのことで
「──はい」
小さく声を出し、後は黙って彼の斜め後ろを歩いていった。


 その頃、監察たちはいくつか武田関連の動きを洗い出していた。
 最近は伊東たちとばかり飲みに行くし、その飲みに行った先の料亭にはよく薩摩藩士が来る。同じ日に来ることは多くないのだが、連絡に芸妓を使っていることも考えられ、杞憂として片付けることも出来なかった。
「それもどうやら、武田先生の方が積極的に誘っているようです。名目は文学談義、とのことですが」
「ほう──。やはりな」
「は?」
土方が漏らした言葉を、山崎は聞き咎めた。
「いや、別筋からの話でな」
実を言うと監察方は、洋子からの情報が調査のきっかけだとは聞いていない。無論、彼女の話の中身も。調査に先入観が入るからというので、土方は必要最低限のことしか事前に情報を提供しないのが常だった。裏を返せば、それだけ監察たちの調査力も問われているのだ。これが監察たちの高い士気の源の一つだった。
「それで、実際の内容は?」
「文学論というより、時勢論だそうです」
「なるほど、そう来たか」
土方が考え込みはじめたのを見て、山崎は部屋を出た。

 恐らく洋子の危惧、そして自分の予測は当たっている。土方にとって、問題はここからだった。つまり、どういう形で武田の尻尾をつかむか? 或いは、どのようにして実際の行動に武田を追い込むか? である。
 下手なことは出来ない。山南脱走時の混乱や動揺はまだ古参・中堅隊士の記憶に根強く残っており、それが現在の伊東支持の強さにも影を落としている。従って、いくら武田個人が嫌われているとは言え背後に伊東の影が見えれば反応も違ってくるだろう。要するに、如何にして伊東とは無関係な形で武田を追い込んで始末するか、が最終的な勝負なのだ。そのためには武田個人に醜聞を作り出すのが手っ取り早いのだが──。
「誰に協力させるか──」
土方は、この時既にそこまで考えていた。

 一方、武田はこの当時、薩摩藩士との接触を模索していた。
 この頃には、薩摩藩の反幕府的行動が次第に明確になっていた。もともと当時の風評では薩摩が長州と組めば幕府側に勝ち目はないと言われており、そのため幕府側としては出来るだけこの藩だけは刺激しないように注意して扱っていたほどなのだが、とうとう実際に長州藩と手を結んだらしい。言うまでもなく新撰組の所属している会津藩は、京都守護職という幕府側の京都での治安維持や交渉を行なう重要な役職に就いており、ことがこうなっては新撰組に留まっていては返って将来的に危険だった。
 また、その新撰組自体、近藤が根っからの佐幕派であり、未だに幕府を裏切って薩長側につくなど考えていそうにない。もともと伊東は思想的には尊王攘夷派に近いものを持っており、新撰組は彼にとって飛躍のための舞台に過ぎないと武田は見ていた。舞台が合わなくなれば変えるのは、ある意味で当然のことである。
 ところが、東国出の伊東は薩摩藩との人脈は薄い。そこで武田としては、自分が仲立ちとなって伊東と薩摩藩を引き合わせ、自分も伊東と一緒に離脱する腹だった。伊東一派十数人、それぞれ一流の剣客であることには違いない。従って一人で離脱するよりは遙かに安全であろうし、自分が仲立ちになれば離脱後もそれなりの立場を築ける。出来れば江戸から伊東についてきた篠原覚之進より上に立ち、仕切ってみるのも悪くはない──。
 そう考えている武田は、しかし最近の自分の行動が周囲から猜疑の目で見られ、なかんずく監察たちの調査の対象となっていることには、全く気づいていないのだった。

 かくして数日が過ぎた、ある日の夕刻。家に帰る途中で、洋子は山崎らしい人影を見た。背中に箱を背負いつつ、誰かをつけているらしい。
 思わず自分も物陰に隠れ、山崎が見ている方向を見やる。店先で立ち止まっている人の姿が見えたが、ちょうど夕闇に紛れて顔がよく分からない。大まかな服装からして武士らしいが、遠いので羽織の細部もよく見えない。
 その人物が、再び歩き出した。同時に山崎も、後を追って歩き出す。洋子も反射的に動こうと思った瞬間、背後から声がかかった。
「ひーろっしさん」
ビクッ! となって振り返る。声の主を確認して、ほっと息をついた。
「──ああ、何だ。お増さんじゃないですか」
「師範代が慣れないことするもんじゃないわ。私が来てたのにも気づかないなんて」
「──それはともかく、何か用ですか?」
話を本筋に戻しつつ、山崎の更に後ろをつけようと歩きだした。
「別にこれと言って用事はないわ。ただ、あなたが誰かの後をつけてるなんていう珍しい光景が見られたものだから。──ああいうのは、監察に任せた方がいいと思うわよ」
「でも、山崎さん一人で──」
「大丈夫よ、最近は彼らも随分実力つけてきたから。私が言うんだから間違いない」
相手が御庭番衆の一員であることを改めて思い出し、肩をすくめる。確かに私が心配してどうこうするより、お増さんの言葉の方が正確だろう。
「──じゃあ、私は帰りますね。お夢も心配するだろうし」
「そうね、それがいいわ。じゃあまた──」
洋子が立ち去るのを見送ってから、お増はほっと息をついた。そして
「山崎が追ってたのは、武田観柳斎の使いに間違いない──」
険しい表情で、呟いたのである。