るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十八 粛正(3)

 さて、山崎がつけていた男は、ある料亭に入っていった。武田と伊東がよく使う料亭とは、また別のところである。山崎はその付近をうろつきながら、しばらく様子を見ることにした。どうせ彼らが来るには時間がかかるだろう。
 そこに、薩摩藩士らしい訛りの声が聞こえた。
「柳殿はここにごわすか?」
「上で柳様のお付きの方がお待ちしていらっしゃいます。ご本人はお仕事の都合上まだ参られぬとかで、ご到着なさいますまでもうしばらくお待ちを」
「──ふん、まさか柳のやつ──」
そう言って、その武士はぐるりと周囲を見回した。山崎はさりげなく視線を逸らし、少し遠ざかりつつ気配を探る。二十歩ほどゆっくりと歩いて顔だけ振り返ると、武士はその店に入っていくところだった。山崎は更に少し、進んでいた方向へ歩いていく。
『──俺の見立てが正しければ、柳様ってのはあいつのはずだ』
多分、柳というのは偽名だろう。──証拠はないが、今さっき入っていったのは──。
そこで山崎はくるっと回転し、来た道を戻っていく。そうかと思えば数歩ほど歩いた店で立ち止まった。雑貨屋の店先に並んでいる品物を見ながら、時折料亭の方をちらっ、ちらっと見る。店の主らしい老婆が話しかけてきた。
「あんさん、何かお気に召しやした?」
「うん? ああ、うちのしゃもじがちょっと古くなっててね。買い換えようかと」
「それならうちのしゃもじは、芸州からのや。いいやつやで」
「へえ、しかし芸州からとなると高いんだろう。料亭からの引きがあるって聞いたが」
例えばあそこの、と山崎は自分が見張っている料亭を指さした。
「ああ、あそこはダメやわな」
この老婆はにべもなく応じる。山崎は目を瞬かせて
「ダメ? ダメってどういう意味だい」
「なんか薩摩藩の武士が出入りするようになってから、しゃもじを力試しのタネにするようになってな。何本ものしゃもじが折られて、高いのが買えなくなったんだと」
「へーえ、そいつは災難だな。ちなみにいつ頃からだい」
「一昨年の暮れから出入り始めて、そういうことするようになったのは去年の如月ごろじゃなかったっけねえ」
「そうかい。じゃあこれ一本買っておくよ」
老婆の言い値は高かったので少し値切り、彼はそれを買った。
『それでも高いんだがな。まあいい、情報提供代として隊から出してもらうか』
そんなことを考えつつ、山崎は料亭にやや早足で歩いていった。ある曰くありげの武士が、向こうから歩いてくるのを見たからだ。

 上から被り物をして顔を伏せ、その武士は歩いてきた。服はどこにでもあるような無紋のもので、腰を落として歩く剣術に長けた者独特の歩き方以外、大して変わった気配はない。山崎はさりげなく近づいて、料亭の前でその武士が店の者と話しているときに通り過ぎた。料亭の前でだけ速度を落として歩く。
「まあ、柳様。よくおいでなさいやした」
「中村殿はもうおいでか?」
その訛りが、紛れもなく出雲のものである。そちらをちらりと見た山崎だったが、武士の顔はよく見えなかった。そのまま横を通りつつ話を聞く。
「ええ、先ほどからおいでやす。村田はんと一緒にお話中やで」
「そうか、遅れたか。では早速案内してもらおう」
そう言って、その武士は店の中に入っていった。最後の台詞の声と訛りで、山崎はほぼ武士の正体を確信した。間違いない。
 ──問題は、証拠をどう確保するかである。


 土方は、報告を受けて数秒ほどじっと考えていた。そして
「その村田とか言う人物、どういう男だ?」
へ? と山崎は首をひねった。村田というのも恐らく偽名で、武田が親しくしている浪士に間違いないと、今さっき言ったばかりである。
「ですからさっき説明しましたように──」
「それは武田君との関係だ。私が知りたいのは彼の過去、身元だ」
一瞬、土方の言葉の意味が分からなかった彼だが、程なくその真意を理解する。
「──早速調査いたします。出来るだけ早急に」
「ああ、頼むぞ」
無表情に応じる。だが山崎は、そんな土方にある種の凄みを感じていた。
『土方先生に嫌われたのが、武田の運の尽きだな』

 その頃、庭で平隊士相手に稽古を付けていた洋子の耳に、道場から凄まじい音が聞こえた。思わずそちらを見ると、例によって斎藤の荒稽古である。
「さすが師範だ。神道無念流と北辰一刀流の両方を修められた伊東先生と互角とは」
「──って、あれ、伊東先生?」
洋子は目を瞬かせた。斎藤の相手は道場の壁に叩きつけられながら、意外と平気そうに立ち上がっている。この時点で実は相当珍しい光景なのだが、あれが伊東となると洋子には別の意味で興味があった。
「へえ、師範と参謀の稽古か」
その頃には、他の隊士も気づき始めたらしい。関心がなく稽古を続ける者もいたが、多くは道場の方を見つめている。叩きつけられた側が道場の中央に戻った。
「では、三本目。始め!」
審判をやっている声の主は、意外にも武田だった。

 「今日はどうかしたんですか、斎藤さん。急に伊東先生と稽古する気になるなんて」
「ごちゃごちゃ追及するな、この阿呆。たまたま互いに手が空いただけだ」
俺と伊東先生が稽古してどこが悪い、と斎藤は言った。洋子は具の天ぷらを食べながら応じる。屯所近くのいつもの蕎麦屋だった。
「別に悪いとは言いませんけど、どういう心境の変化かなと」
「心境の変化? そんなものはない」
かけそばを食べつつ、心外そうに斎藤は言った。
「だって武田先生が審判やってましたし、珍しいじゃないですか」
「あれは伊東先生が頼んだんだ。俺じゃない」
「へえ、そうなんですか」
と言って、洋子は汁をすすった。そして器を机に置き、
「──で、どうでした? 伊東先生の剣腕」
聞かれた斎藤は、一瞬蕎麦を食べる手を止めて洋子の表情を窺った。そして
「確かに、超一流の剣客ではあるだろうな」
「あ、斎藤さんもそこは認めるんですね」
やっぱり強いんだ、と洋子は言った。
「ただ、打ち込みが微妙に浅い。──あれでは、骨が斬れんこともあるだろう」
「──どういう意味ですか、それって」
後半の口調が違うのに気づいて、洋子は訊いた。斎藤は苦笑と嘲笑の混じった表情で
「阿呆には口で説明しても分からん。自分で考えろ」
「──斎藤さんが説明しても分からないのに、自分で考えろって突き放すのは根本的に矛盾してるような気がするんですがね」
   ボカッ!!
「だったら考えるな。それか自分で伊東先生とやってみろ」
「やれるならとっくにやってます! 大体斎藤さんが会議中でいないときには、その会議に伊東先生も出てますし。やる機会がないんです!」
   バキッ!!
「そもそも、何で昼間にやろうとするんだ。そんなにやりたければ仕事が終わった後にでもやればいいだろうが」
「夜は夜で忙しいんです! 他のみんなのこともありますし、私がやりたいからってそうそう簡単に付き合わせるわけにも──」
   バゴッ!!!
「阿呆。俺の都合は無視するくせに、何で向こうの都合は気にするんだ」
洋子は呻くだけで返事が出来ない。気絶しなかったのは不幸中の幸いだろう。
 最後には喧嘩になっている、いつもの二人だった。


 さて、山崎は村田と呼ばれた浪士の身元をこの数日洗っていた。
 本名は矢野兵衛と言い、親が出雲の出身でその頃にわけあって国をぬけ、本人は京都育ち。村田というのはあの場だけの名前だったようだ。恐らく武田とはその親が関係していたのだろうとのことで、周りの住民も武田が来ていることを知っていた。ただ、特に後ろめたい経歴も本人にはなさそうである。
 これは本人に普通に会って話を聞いた方がいいな、と山崎は判断した。脅して情報を取るのは、本来彼の得意とするところではない。

 薬屋に変装した山崎は、行商人のようなふりをして矢野の家の玄関をくぐった。
「どうも、薬屋です」
普通の長屋である。夕方だったので、矢野は家にいた。
「ああ、あんたか。最近この付近に来てる薬屋ってのは」
「あ、噂聞いてまっか。そんなら話が早いですわ」
と、まずは薬の効用を一通り説明した。そして
「どうでっか? 試しに一箱だけでも買うてくれまへんか」
「いやあ、興味はあるけど値段がなあ」
「そうでっか、残念やなあ。切り傷の特効薬やのに。今の世の中物騒やさかい、ちょっとくらい高うても買っておく価値ありまっせ、この薬」
「もう少し安ければ買わないでもないんだが、銀八匁は高すぎだよ」
「ほなら──」
交渉の結果、山崎は六匁で買わせることに成功した。だが仕入れ代や交通費も含めると、もうけはほとんどない。
「あーもう、あきまへんわ。儲かりまへん。今回だけですよ、ホンマに」
山崎はさも弱ったという風に言って、頭をかいた。実は新撰組の経費から落ちるので、彼個人の懐が痛むわけではないのだが、この程度は演技として必要なのだ。
「ハハハ、これがホントに効いたら七匁くらいで買ってやるよ。っても、いつ使い切るか分からんけどな」
「他の人に使わせてやっても構いまへん。ここには新撰組のどなたかが時々見えてはるそうで、その人にお勧めしてやってくらはいな」
「ああ、そうするよ。巡察中の傷が結構あるらしいんで」
「ほならおおきに。また来ますわ」
山崎は、こうしてその日はその家を出た。