るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の二十一 静暗殺計画(1)

 慶応元年四月初頭、洋子は部下たちの口論に頭が痛かった。
 口論、と言っても大した話ではない。月見そばの生卵は最初にぐちゃぐちゃにしてしまうか、最後まで取っておいてさじで丸飲みするかの話である。大体洋子は売られるまでソバなど食べたことがなく、そういう面での先天的な思いこみはないに等しいのだが、ある人間にはあるらしいのだ…。
「最初にほぐしておけば、汁の味がまろやかになる。更にコクも出てくる。最後まで置いておく必要がどこにあろうか」
「澄んでいてこそソバの汁だ。卵の黄身をぐちゃぐちゃにして混ぜ込み、濁らせてしまった汁などソバの汁ではないわ」
「──斎藤さん、どうにか言って下さいよ」
一人悠々とかけそばを食べている斎藤に、洋子は言った。ちなみに彼女自身は狐ソバを食べ終えてしまっている。大体ここに連れてきたのは彼なのだ。
「放っておけ。食べ終わり次第戻るぞ」
そう言って斎藤は汁をすすった。と、急に表情が険しくなる。
「──ちょっと行って、様子を見てきましょうか?」
洋子も感づいたらしく、席を立とうとした。それを押し止めて
「いや、いい。あの程度ならどうにでもなる」
店の外に視線を向けながら言った。密偵か偵察か知らないが、来てすぐに相手に気配を悟られる程度の男だ。大したことはない。

 

 「やっと静の居所がつかめたようだな。で、どこだ」
江戸の旗本屋敷の一角。ちょっとした庭園のある縁側で、若い男が言った。
「それが……。京都で、新撰組の一員になっているようでして。それも三番隊伍長、実質的には伍長筆頭とか。迂闊には手が出せませぬ」
「何だと!?」
その名は畏怖すべきものとして、江戸でも鳴り響いている。今月も土方以下数名が隊士を募集しに上京し、浪人や町人を中心に応募がかなりあるらしい。
 それはまあ、所詮下々のことだからいいとしよう。だが静がいるとなれば話は別だ。あの泣き虫の静が何故、新撰組隊士などになっているのか。それも伍長筆頭ともなれば、実質的には上級幹部だろう。この数年で何があったのか知らぬがよく我慢できるものだ、と報告を受けた武士は呟いた。数秒ほど後
「とは言えことが公になれば、我が畠山家の存続に関わる。金はいくらかかっても構わぬ故、何とか秘密裏に処分せい」
そう指示し、立ち去る町人姿の背中を見送って
「すでに御庭番衆には発覚しておるのだ……。処分は急がねば……」

 

 その頃、隠密御庭番衆京都探索方では、元来からの御庭番衆の組織に闇乃武の残党をどう取り込むかの作業が仕上げ段階に入っていた。
「ふうむ、あと二十名ほど足らぬか。大部分は取り込めたのだが」
書類を読みながら、翁は呟いた。
「普通の町人として暮らしたいという者は取りあえず良かろう。問題は所在地不明の十数名じゃ。あとあと軽挙妄動に出ぬとも限らぬ」
「今後とも探索を続行するように、指示しましょうか」
「ああ。頼むぞ」
お増が出ていくのと入れ替わりに、お近が入ってきた。
「あの、江戸から──次期御頭が」
「蒼紫が?」
珍しいこともあるものだ、と翁は思った。御庭番衆において内部の役割分担はきっちりしており、江戸詰めの人間が京都探索方に口を出すことはまずない。何か余程の緊急事態でも起きたのだろうか。
「久しぶりだな、翁。──話がある」
まだ少年とは言え、腕は御頭に次ぐほどある。天才隠密・四乃森蒼紫が、姿を見せた。

 

 いかなる規則にも、例外は存在する。新撰組の隊規にもそれは当てはまり、例えば組を抜けることが認められる場合は幾つか存在した。暗殺などで任務は果たしたものの下手人が発覚しては隊として困る場合、任務を実行した隊士が餞別を貰って組を抜ける例は数回あったし、怪我で隊士としての任務の続行が不可能になった場合にも、怪我をしたときの状況によっては認められる例がある。
「じゃあ、和白君。元気で」
「はい。天城先生もお元気で」
東海道への道を京の外れまで見送って、和白一郎と洋子は別れの挨拶をした。和白一郎には右手がない。巡察中に敵に斬られ、隊に居続けても通常の仕事は不可能と判断されたので餞別を貰って故郷に帰るところである。
 他にも数人ほど見送りの隊士が来ていて、それぞれ和白と別れを惜しんでいる。洋子が来ているのは、世話役をしていた当時、彼に色々助けられたためだ。
「では、皆さん長い間お世話になりました」
最後に一礼し、和白は背を向けて歩き出した。
 姿が見えなくなるまで見送った後、その場の数人の隊士は屯所に引き返し始めた。
「──ちょっと行って来る」
洋子が顔色を微妙に変えた。険しくなっている。
「少なくとも今日中に帰るから。局長によろしく」
そう言って、他の隊士が応じる間もなく脇道に駆け込んで見えなくなる。その姿を見送った残りは、互いに顔を見合わせて首を傾げた。

 「朝から何のつもり? 決闘なら相手になるよ」
注意深く周囲を見回し、刀の柄に手をかけながら洋子は言った。
「出てこい。三対一の上に不意打ちとは、仮にも志士を名乗る者のすることではあるまい? それとも単なる盗賊か、金狙いの人斬りか?」
続けて呼ばわる。こう言えば大抵の浪士は侮辱されたと感じて出てくるのだ。そこを討てば面倒がない。逃げる奴は放っておく。
「貴様、壬生狼の分際でよくも我々を……ぐへえっ!!」
敵が現れたと同時に、洋子はその方向へ身構えて突進していた。目にも止まらぬ早業で相手の胸を一突きして素早く刀を抜く。血が凄まじい勢いでそこから噴き出した。
「ひえええっ!!!」
「に、逃げろっ!!!」
それを見た残る二人は、一目散に逃げていく。いずれも町人らしく、刀は帯びていない。一人斬ったわけだし放っておくかと思い、懐紙で刀の血を拭いて鞘に納めた。斬った男の懐を調べるが、何もない。
 ただの浪士かと思い、彼女はその場を離れた。

 数日後、洋子は稽古の指導中を門番の隊士に呼び出された。
「人が来てますよ、天城先生に用事があるとかで」
門に出ると、身なりの整った武士が一礼している。ある程度の身分ある武士らしいのは一目で分かった。こちらも一礼し、互いに名を名乗った後本題に入る。
 「決闘?」
洋子は驚いて訊いた。彼の主人の見廻組隊士が、自分との決闘を望んでいるらしい。
「はい。先日天城先生が斬られた男が、実は私の同僚、つまり我が主君鳥羽辰郎の家来でして。敵を討ちたいと仰せなのです」
巡察中や手入れ時に斬ったなら、洋子に名指しで来る可能性は少ない。つまり彼女が単独行動中に斬った者なのだろうと自分で判断し、数日前に起こった事件を思い出す。
「──しかし、あの時の男は身分を証明するものを何も持ってなかった」
見廻組隊士の家来なら、懐中にそれを示す札を持っているはずだ。そう疑問を呈すると
「あの時はたまたま友人と飲みに行っておりましてね、酔っ払って軽い二日酔い状態だったとか。料亭に札を置き忘れたのでしょう」
「そうだったか。──出来れば決闘ではなく、穏便にことを済ませたいもの」
見廻組の隊士と新撰組の伍長が決闘などという事態が公になれば、双方色々な面でタダではすまない。それは困るだろう、と洋子は思ったが。
「私も、そうは申し上げましたが。鳥羽様はお怒りになってお聞きにならぬのです」
旗本というのは、実力はないくせに誇りだけは高い。自分の部下が壬生狼に殺されたとあっては収まらないだろうねと洋子は思い、ため息混じりに応じた。
「──分かった。決闘の場所はこちらで指定するのが通例となっているそうなので、明日の夕方に改めてこちらに来て欲しい。決闘も明日」
決闘を申し込まれたのに受けないのも士道不覚悟になりかねない。取りあえず誰か分からないようにして出かけることにし、洋子は屯所の中に戻った。

 「葵屋の人から、お手紙が来てますよ」
その日の夕方。仕事と伊東の講義を終えて家に戻った洋子は、お夢にそう言われた。
「そう。──これ?」
下駄箱の上に置いてある手紙を取り、確認する。頷いたので中を開けた。

   実家の者たちが、静姫のご在所をつかんだ模様。
   何やら穏やかならぬことを考えている由にございます。
   くれぐれも、ご注意下さいますよう。
                            翁

 ──ひょっとして、明日の決闘もあいつの陰謀なのだろうか。洋子は思った。
 顔を思いだそうとしたが、奇妙なことに出てこない。婚約者でありながら自分を売った張本人という憎むべき存在でありながら、そいつの顔がさっぱり思い出せないのだ。もしそうだったとしても打ち破ってみせるという、自信だけはあるのだが。
「──何かありました?」
無言で考え込んでいるので不安になったのだろう、お夢が訊いた。
「あ、いや、ううん。何でもない」
頭を振り、手紙も元の位置に戻しながら洋子は言った。そして
「今日の食事は何? お腹空いちゃった」
「あ、いけない! 少し煮詰めすぎたかも…」
言われて急に思い出したらしい。お夢は囲炉裏に戻って鍋をかき回した。
 それを笑って見ながら、洋子は明日のことに思いを巡らせていた。──売るだけでは飽きたらず、殺しに来たかと。