るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の三十七 天満屋事件(1)

 慶応三年の十一月末。冬の朝、ある宿屋に入ろうとした一団があった。
「どうも、天城先生か斎藤先生いま…」
   バシッ!!! ドンッ!!! ドサッ!!
目の前の塀に背中から思い切り叩きつけられたのは、まだ十代後半の知り合いの少年である。驚きの余り呆然として少年の様子を見ていると、奥の方から彼らには聞き覚えのある声が聞こえた。
「これで、俺との実力の差が少しは分かっただろう」
「──痛たた…。いきなり零式繰り出さなくてもいいじゃないですか、斎藤さん」
少年は攻撃を食らったらしい箇所を押さえつつ、相手を見上げてそう応じた。その相手、斎藤と呼ばれた簾頭に悪人面の男は歩いてきながら嘲笑して
「阿呆。実戦だったら今頃お前はあの世行きだ」
「実戦でいきなり牙突零式使いますか、普通!!」
   バキッ!!!
 少年の方を木刀で殴りつけて黙らせ、斎藤は先ほど入ってきた一団を見やった。新撰組の制服を着ており、人数は十人足らず。ほとんどが知り合いである。
「で、お前たちは一体何の用だ」
「──あ、副長の命令でお二人の手伝いに来たんです。三浦先生の護衛に。状況が変わったから、追加で行ってこいと」
一人が慌てて応じる。男は彼ら十人ほどを眺めやると
「分かった。紹介してやるから着いてこい」
と言って、庭から上がって歩き始めた。一団の中の一人が、まだ呻いている少年の方を見やって
「あの、天城先生の方は」
「その阿呆なら、遅くとも昼飯前には自力で部屋まで来るだろ。心配するな」
男は振り返らずにそう応じ、奥に入った。

 斎藤と洋子は、油小路の変が済んでからも三浦休太郎の護衛を続けていた。二人を割り当てた新撰組側の事情とは別に、三浦が刺客に狙われそうな状況にあるのは事実であり、事件が終わったからといってすぐに帰れるわけではない。まして斎藤は、すぐに帰れば今は薩摩藩の下にいる元御陵衛士の面々から命を狙われる恐れがある。ほとぼりが冷めるまで、ここ天満屋にいた方がいいだろうという判断もあった。
 そんなわけで、護衛を始めてから今までの二十日足らずは洋子が三浦の外出時の護衛担当だった。襲われる可能性は彼女の方が遙かに低いからだ。そこに他の隊士が応援に来たので、彼女は彼らに護衛を任せて部屋で伸びていた。
「まったく、最初に一合撃ちあって二合目でいきなり牙突零式だもんね。はあ」
さっき一撃食らったところが、まだかなり痛い。内臓出血も吐血もなかったのが不思議なくらい、と彼女は呟いた。
「天城先生、お昼ご飯出来ましたよ」
「分かった、今行く!」
平隊士に呼び出され、洋子は立ち上がった。

 その日の午後、痛みが取りあえず治まった洋子は庭に出てきた。平隊士が数人稽古しており、それを見に来たつもりだったが。
「心配事ですか?」
いつの間にかぼんやりと遠くを見つめているだけの彼女に、平隊士の一人が訊いてきた。はっとなって振り返り
「あ、いや、お夢のことがね」
祇園に斎藤を迎えに行った朝に別れたきり、しばらく会っていない。葵屋に預かってもらっているので多分大丈夫だろうとは思うが、心配なのは事実である。
「本当はちょっと様子を見てきたいんだけど、斎藤さんもお妙さんとずっと会ってないからね。私一人だけってのも気が引けて」
「お妙なら、実家に帰した」
そこに、斎藤の声が聞こえた。
「お前と合流した直後に、事情を説明した手紙を出した。その後ここの宿屋の者に見に行ってもらったんだが、俺の命令通り実家にいるようだ」
「そうなんですか」
意外そうに自分を見上げる洋子に、彼は言った。
「だからお前も、お夢に会いに行きたかったら行っていい」
「──」
洋子は目を瞬かせながら、無言でしばらく斎藤を見上げていたが
「でも、斎藤さん自身はお妙さんに会ってないんでしょう?」
「お妙は大人だが、お夢はお前以上にガキだ」
『お前以上』の一言にむっとした彼女だが、ややあって一息つくと
「じゃあ、私もここの人に様子を見に行ってもらいますね」
と言って、その場を離れた。

 それから数日して、今度は土方が現れた。今の彼は幕府の旗本であり、三浦に会う権利も当然ある。平隊士の宮川に案内されて奥に向かう彼の、少し離れた後ろの方をついて行きながら、洋子は斎藤に囁いた。
「何しに来たんでしょうね、土方さん」
「俺が来たら悪いか?」
前方から本人の声がして、ビクッとする。一瞬沈黙した後で、洋子は
「別に悪くはないですけど。ちゃんと仕事はこなしてますから、そういうつもりなら来なくても」
「俺は単に、三浦先生のご機嫌を伺いに来ただけだ」
「それならいいんですが」
洋子の口調には、相変わらず疑うような響きがあった。

 そもそも、三浦が新撰組に護衛を頼むことになったのは、土佐脱藩浪士の坂本竜馬率いる海援隊との事件が原因である。この年の四月に紀州藩の船である明光丸と海援隊の船であるいろは丸が瀬戸内海で衝突事件を起こし、いろは丸が沈没してしまったのだ。
 その後、紀州藩が海援隊に多大な賠償金を支払うことになったのだが、その間の交渉に関わっていた三浦としては、不満のある連中に狙われないためにも、事件に完全に決着がつくまで「念のために、手の空いた者がいれば」ということで新撰組に護衛の派遣を依頼し、御陵衛士を抜ける斎藤(と洋子)の隠れ家を探していた土方たちが、それに乗ったというわけである。
 ところが、油小路の変の三日前に坂本竜馬が暗殺されてしまう。犯人は未だにはっきりとは分かっていないが、調査中に海援隊の一派が三浦を犯人だと信じ込んで報復しようとしているとの情報が入り、新撰組としても洋子と斎藤だけでは危ないという理由で、増援することになったのだ。そして、念のために三浦本人にも事件への不関与を確認しようと、土方が今日になってやって来たのである。
「貴重な人材を長い間お借りして、申し訳ないことです」
三浦はまずそう言い、頭を下げた。
「いえ、そちらも大変でしょう」
土方は愛想よく応じた。そして出された茶を一口飲むと
「三浦先生には既にご存知かと思いますが、土佐脱藩浪士の坂本竜馬が何者かに暗殺されました。実はこちらの護衛を増やしたのもそれに関連しておりまして、彼の仲間が三浦先生を暗殺犯の黒幕だと思いこんでいるらしいのです」
「何と」
三浦は驚いた様子で湯飲みを置き、しばし沈黙していた。そして土方の視線に気づき
「私は、その件とは全く無関係です。確かに明光丸といろは丸のことでは色々とありましたが、だからと言って彼を殺そうなどとは、全く思いもつきませんで」
「存じております」
さも恐ろしげに首を振りながら言う三浦を見て、土方はそう応じた。そして
「お前ら、廊下で何やってる」
と声を出す。一瞬間を置いて障子が開き、現れたのは洋子と斎藤だ。弟子を突き出すようにしながら、斎藤は
「済みません、副長。この阿呆が勝手なことを」
「止めなかったじゃないですか、斎藤さんも!」
「俺に言わせればどっちもどっちだ」
土方にため息混じりに断定され、二人は黙り込んだ。三浦がその様子を面白そうに見ている中、副長の方が
「まあ、そういうことだ。しっかり頼む」
言った後、斎藤の方を横目で見やった。

 それから少し経った、十二月七日の夜。多数の人影が、天満屋近くに集まっていた。
「新撰組が、三浦の護衛についているというのは本当か?」
「ああ。かなり前から、三浦の外出時に同行している」
出来れば奴らが出てくる前に、一撃で決めたいものだが──と呟いた、一座の中心人物らしき者に対し、一人の男がすっと手を挙げた。
「中井か、いいだろう。──他の者には手を出すな。狙いはあくまで三浦だ」
「分かった」
中井と呼ばれた男は低い声で頷き、塀に寄りかかって瞑目した。その横で、他の者たちがそれぞれ最終的な手取りを確認する。程なく
「中井」
と声がかかり、彼は目を開けると、無言で先頭に立って歩き始めた。

 夜でもあり、庭はさほど明るくない。勝手口から入り込んだ中井たちは、ある客の部屋から出てきたお運びの女一人の背後から忍び寄っていきなり口を塞ぎ、次いで羽交い締めにした。そして刀を喉元に突きつけ
「紀州藩周旋方、三浦休太郎の居場所はどこだ?」
と小声で訊く。女は知らないとでも言うように首を振った。
「殺されたいか、女!」
男は、刀の冷たい部分を押し当てた。ヒッと喉が鳴り、今度は口を塞いでいる手を離そうとする。それを見た別の男が
「おい、離してやれ。口を塞いでは説明も出来まい」
と言った。そこで彼は手を離し、刀を押し当てたまま女に説明させる。

 

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