るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』其の五 別れ

 「ふう。緋村、あんたやっぱり強いよ」
洋子はそう言って座り込み、木刀を投げた。夕暮れの竹林の一角に当たって、大きな音がする。水を被ったように髪が濡れているが、俄雨が降ったのではなく汗である。
「そうかな、君もなかなか強いと思うけどな」
剣心が立ったまま微笑して応じた。そう言われても、あっちは息一つ乱してないのにこっちは心臓がどくどく言ってるのが分かるほどの疲労ぶりじゃあお世辞にしか聞こえないわよ、と洋子は内心呟いた。そりゃあそこらのちんぴらと比べたら強いけど…。
「だって、剣を習いはじめてたった二年半かそこらだろ? それでそこまでやれるんだから、大したもんだよ」
そんなこと言われても全然嬉しくない、と彼女は思う。斎藤は決してそんなことを評価の対象にしない。いつも勝ったか負けたか、それだけが評価の中身の男である。
《実際、この年齢としては強いとか言われても実戦上無意味なんだし》
師匠に対して、唯一この点だけは認めている洋子である。たった二年の割にと言われても喜べないのは事実だった。
「それはそうと、いつになったら約束果たす気?」
「約束?」
首を傾げる剣心に、洋子は石を投げつけた。
「ほら、あんたの家に連れていってくれるって言う約束だよ。忘れたとか、冗談でも言ったら怒るから」
かわされた腹立ち紛れにそう言った。ああ、と頷いて
「仕方ないだろう、野宿やってるんだし」
面倒そうに応じる。そこに呆れた声が降ってきた。
「まだ野宿? ――あんたも物好きなことするなあ。いくらあんたが強いからって、本物の人斬りに会ったらどうする? 誰も助けてくれないよ」
「自分で切り抜けるさ、そうなったら」
あっさりそう言い返し、剣心は近づいてきた。
「もう夕方だし、宿屋まで送ってくよ。最近、ますます物騒になってきてる」
差し出された手を握って、洋子は立ち上がった。

 この時、剣心は奇兵隊に参加するために長州に向かう前である。洋子は翁たちの協力で試衛館の居候仲間や道場主の近藤が京都に残留していることは分かったものの、芹沢鴨や新見錦と言ったよからぬ連中と組んでいるのが気がかりで、まだ壬生近辺に行ったこともない状況のまま過ごしていた。
 剣心もまだどの派閥に属するか決めかねているらしく、金がないので野宿続き。妙に意気投合し、しかもやることのない二人は仕方がないので京都、奈良、大阪と洋子が翁の紹介状を貰って一緒に見て回り、その後は翁に教えて貰った秘密の場所で毎日剣の稽古をしていた。食事もお増に二人分頼み、剣心にやっている。
 1863年五月上旬、一橋慶喜と徳川家茂が孝明天皇に約束した攘夷開始の日である五月十日以前の話である。

 五月十日未明、長州藩は下関で航行するアメリカ船を砲撃した。幕府に攘夷を実行する気のないことを見抜いた長州藩、特に松下村塾出身の者たちが中心となってやったのである。その後フランスやオランダ船にも砲撃を加え、この挙は天下に広まった。

 

 「俺、長州に行く」
洋子が剣心の言葉を聞いたのは、五月の下旬だった。
「え…」
洋子は急な宣言に戸惑った。確かに下関砲撃事件以後、攘夷を決行した藩として長州藩の人気は志士の間でぐっと上がっている。だが京都から長州までの道のりは余りにも遠い。この人斬りが横行するときに、それだけの距離を歩くのはいくら剣心でも危険だと彼女は思った。第一、旅費はどうするのか。
「野宿するから大丈夫さ。人斬りなら自分でどうにかする」
「食費は? まさか十日以上も食べないでいるつもり?」
京都から萩まで、徒歩で十日はかかる。さすがに剣心もぎくっとした。
 この当時、つまり比古清十郎の家を飛び出してから長州藩の奇兵隊に入って人斬りになるまでの剣心は文字通りの文無しで、洋子に会うまでまともな食事をしていない。時折人助けをするなどで、お礼にくれるものを質屋に売って金に換えることで食いつないでいる有様だ。それにしても毎日ではない。
「腹が減っては戦は出来ぬっていうし、無理しない方がいいと思うなあ」
洋子の台詞に、いったん諦めてしまう剣心だった。

 

 とはいえ反対した洋子とて、理由はそう単純ではない。
 そもそも最大の懸念は、多分長州藩が遠からず幕府に敵対し、試衛館の居候仲間と剣心が戦うことになるのではないかというものだった。長州藩の尊王攘夷派の母校とも言える松下村塾を開いた吉田松陰は安政の大獄で処刑されており、これからして長州の潜在的な危険性が分かるというものだ。そして洋子は、いざとなった時に剣心と試衛館の居候仲間のどちらを選ぶか、断言できなかったのだ。
 彼女は、剣心に密かな恋心を抱きはじめていた。

 洋子には、試衛館の仲間は恋愛感情の対象外だった。道場主の近藤は妻子がいるので問題外だし、土方はどこか怖そうな雰囲気で好きになれない。居候連中の大部分とは特別な好意を持つほどには親しくなく、沖田は彼女を妹としてしか見ていない。斎藤にいたっては洋子の方が嫌っており、はっきり言って願い下げである。
 そう言う状況下で剣心のような強くて優しくて顔も悪くない、しかも自分を対等な存在として見なしてくれる男が現れれば、普通女性がどんな感情を抱くかは見当がつく。そして洋子も、その例外ではなかった。
 ただ、試衛館の仲間には恩義がある。あの冬の日に、死んでいたかもしれない洋子を拾い、それ以来ずっと養い、剣術をただで教えてくれていた。薬屋での労働と斎藤のしごきはどちらもきつさは互角だったが、投げそうになると沖田が励ましてくれた。そして、誰が何と言おうと外部のものとの喧嘩では常に彼女は庇われていた。何の利益も理由もなくここまでしてくれた仲間を、裏切ることは出来なかった。
「裏を返せば、剣心への想いがまだその程度ってことかなあ」
ため息が出る。いっそのこと自分のことを話して新撰組に入れようかとも考えたが、こうなってしまっては手遅れだろうと思う。ただ、今別れるのは辛かった。剣心がいなくなり、試衛館の仲間とも再会できずにいれば何が起こるか分かったものではない。
「もう少し待ってよ、ねえ剣心…」
その日の夜、布団の中で洋子はそう呟いていた。

 「やっぱり行くよ」
数日後の夕方、稽古の直後に剣心は言った。
「――どうしてもか?」
洋子は訊いた。私がもっと自由な立場だったら、と思いつつ。
「ああ。旅費は旅先でどうにかするから、大丈夫だと思う」
「……次に京都に戻ったら、私と戦うことになるかもしれないが?」
押し殺した声で、重ねて問う。驚いた顔で見つめる剣心に続けた。
「私は、江戸の出身だ。それも新撰組の近藤勇先生の下で剣を習ってきた。先生方が浪士組に応募なさって江戸を発たれたあと、事情があって私もここに来た。ただ、その事情が極めて個人的なものだったので、まだ再会はしていない。だが、再会すれば…」
「でも、いつ再会できるかめどはないんだろう? だったらいっそのこと、君も一緒に長州に来ればいい。何も問題はないさ」
「大ありよ!!」
洋子は叫んだ。日頃の言葉遣いからして変わってしまっている。
「いい、あんたなんかには分からないでしょうけど、あの人たちは売られた先でズタボロになって死にかけてた私を助けて引き取って、ずっと面倒見てくれてた。いま長州に行けば、そういう人たちを裏切ることになるのよ。そうしろっていうの?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。君、まさか…」
「待ってじゃない!! あんたに肉親から売られた時の気持ちが分かる? 売られるってことがどういうことか分かる? 二度と戻れないってこと。自分の家なのに、二度と帰ってはいけないってこと。どんなに孤独か、あんたに分かる? 親が死ぬより、よっぽど孤独なんだから!!」
洋子は涙を浮かべて訴えた。父親の死、従兄弟の家督相続。そして突然、嫌がって泣き叫ぶ自分を無理矢理連れていった男とそれを冷酷に見送る従兄弟の姿。しばらく思い出すこともなかった光景が、次々に脳裏を駆け抜けていく。
「ねえ、聞いてる? ちゃんと返事してよ!」
体を揺さぶられ、しかしそのことよりも話の中身に気を取られていた剣心は
「――分かるよ。俺も、売られた人間だから」
その台詞に、洋子は言葉を飲み込んだ。

 

 「親がその前年に虎狼痢(コレラ)で死んだ。俺は売られて、その人買いたちが悪党に襲われたんだ。で、師匠に会ったってわけさ」
やや置いて、剣心は説明をはじめた。
「貧農の生まれで、毎日食うや食わずの生活だったけど、それでも家族はいた。だから売られることのつらさも分かるし、君の言いたいことも分かる。売られた先でどういう思いだったかまでは、正確には理解できないだろうけど」
そう言って、剣心は透き通った笑みを見せた。その笑みは沖田総司に似ていた。
「ごめん…緋村。あんたのこと、誤解してた」
決まり悪くなって、洋子は小声で言ったあと頭を下げた。
「いいよ、もう。けど、これで多分一生の別れだ。次に会うときはどこかの修羅場、多分完全に敵同士だろうからね」
「うん…そうだね」
ああまで言った以上、まさか長州についていけない。洋子は剣心を遠目で見た。
「君のおかげで、ホントに楽しい日々が送れた。それに、幕府側の人間がすべて悪人じゃないってことも分かった。ありがとう、感謝してるよ」
そんな、いいってと洋子は恐縮しきっていた。やがて剣心はくるっと後ろを向く。
「もう行くの?」
彼女の問いに、振り向かず答える。
「ああ。明日になったら気が変わるかもしれないから」
はっとなって駆け出そうとした洋子に、続けて
「だけど、新撰組に入ってる君の仲間も、君が戦うことは望んでないような気がする」
そして剣心は、夕日の沈む中を歩いていった。夕日に向かって、まっすぐに…。

 

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