るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』番外編 剣と感情(1)

 慶応元年も六月になると、夏真っ盛りである。京都では連日『肌にまとわりつくような』暑さが続いていた。風もないので本当に暑く、おまけに洋子は新撰組の剣術師範代なので他の幹部隊士のようにのんびりしていることなど夢のまた夢だった。
「斎藤さん、何を談笑してるんですか! 永倉さんも!」
手桶に汲んだ水をぶっかけてやろうかと内心思いつつ、道場前の庭先で洋子は言った。本当は稽古に一区切りついたので、顔を洗ってさっぱりするつもりである。
「そう言うなよ、洋。二番隊の平隊士の上達ぶりを聞いてるんだ」
水をすくっている彼女に、永倉は苦笑しつつそう応じた。
「見てるだけの斎藤さんより、実際に相手してる私の方がそういうことは詳しいと思いますけど。斎藤さんは時々いなかったりもするし」
「お前のようなガキに、言われたくない台詞だな」
「ガキ──って……。だったら自分でやればいいじゃないですか、何もかも!!!」
桶を投げ倒して食ってかかり、あとはいつものケンカである。よく懲りずにやる、と永倉は呆れと苦笑の混じった顔で目の前のやりとりを見ていた。
 そしてその一連の光景を、道場の方から本田 泉は眺めていた。

 一時期、泉も剣術師範役をやっていたことがある。また父親が剣術道場を持っていたから、人に教える難しさは知っている。だから洋子の苦労も分かるし、斎藤にはもう少し手伝えばいいのになと思っている。ただ仮にも師匠兼上司で色々恩義もあるらしい人間に、よくああまで盾突いたりケンカ売ったり出来るなと毎日呆れる日々だった。それもこの半年以上ずっとで、いい加減にどっちか折れろと言いたくもなる。
 泉自身には、命の恩人で一番隊の上司である沖田総司に盾突くことなど考えられない。彼に迷惑をかけたくない、仇を討たせてくれた彼のために何かしたい。労咳で命が長くない彼が、それでもいるなら私も傍にいて彼の役に立ちたい。その一心で彼女(洋子と同じく男装の麗人)は新撰組にいるのだ。入る気もないのに誘拐されて入隊せざるを得なくなった洋子とは、当然心理的立場が違う。
「それにしてもだ。これからも毎日これだと」
今日も沖田は体調が良くないらしく、昼前頃から部屋で横になっている。この騒ぎでは寝るどころではないだろうし、気分が良くなって手伝いに入ればこの二人のケンカに巻き込まれて精神的に疲れるだろう。自分が師範代に戻った方がいいのでは、と泉は少し前から考えていた。

 

 それから数日後、斎藤も沖田も出てきていない朝。出勤してきた泉は、洋子が早くも平隊士に稽古をつけているのを見た。
「お早うございます、洋さん」
互いに相手が男装の麗人とは知っており、会話を交わす関係である。洋子の方が近藤以下の新撰組幹部と付き合いは長いので泉が敬語を使っているのだ。
「ああ、泉さん。ちょっと手伝って」
平隊士は全員屯所内で寝泊まりしているので、朝の稽古に出ている数も五人や十人ではない。一部を泉に担当させるつもりだったのだが、そこに声がかかった。
「二人で模範稽古でもやってみないか」
永倉の声だった。胴丸だけを身につけた彼は
「なに、ちょっとだけさ。沖田君と斎藤君には言っておく」
直属の上司ではないにせよ、伍長の二人にとって格上の人間には違いない。顔を見合わせて所定の位置に着いた途端、平隊士たちは歓声を上げた。
 彼らに取ってみれば、天城 洋対本田 泉というのは今最も興味のある取り組みの一つである。共に年齢は十五歳前後、体格もほぼ同じで顔も悪くなく、剣腕もそれぞれ凄まじいとあれば直接対決を見てみたいのは正直なところだ。おまけにこの二人、普段の稽古は全く別の場所でやっており、同じ場所に居合わせること自体そう多くない。
「こいつは、久々に見物だぜ」
「ああ。永倉先生もイキな計らいをしてくれるもんだ」
「おい、喋るな。稽古始まるぞ」
洋子は何故か、常の逆牙突の構えではない。胴丸に腰をかがめるあの姿勢は確かに少々きついのだが、とにかく右に傾いた青眼の構えで泉に正対した。
「別に脱いでもいいですよ、待ってますから」
「木刀相手に防具着ないのも不用心だしね。気にしないで」
では、と短く呟いて泉は斬りかかった。

 泉の猛攻と言っていい鋭い斬撃を、洋子は紙一重でかわしている。泉の剣は基本的に父親から習ったもので、通常は間合いの一歩手前で対峙しつつ攻撃の際には一気に間合いの中へ踏み込み、抜き胴の一撃で決めるのだ。まあ今は木刀なので普通の斬撃なのだが、それを洋子はかわし、受け止め、或いは木刀を滑らせて受け流している。とにかく身体には掠りもしていないのだが、泉が踏み込んでから斬撃を撃ち込んで相手の間合いを離脱するまで一瞬でしてのけるので反撃が出来ない。
「本気になったらどうです、洋さん。防御ばっかりでなく」
「これがいつもの私の戦い方。気にしないでかかって来なさい」
立ち止まったときには、二人とも汗だくである。ただ攻撃と防御の差か、泉の方が息は激しい。洋子が反撃してこないので苛立ったのか、泉は言った。
 この付近は実を言うと、先手必勝型の泉と一撃必殺を重視する洋子の差に過ぎない。平隊士の稽古相手をしていると、まず相手が攻めてこなければ話にならないのでどうしても後攻めになる。そして師範代としては最後に勝たねばならないのだ。だからいつもの戦い方と言っても決して過言ではない。
 再び泉が攻撃に転じる。洋子は相手の袈裟斬りを紙一重でかわし、そこから派生する右薙ぎを木刀で受け止めた。背後からの斬撃もかわし、振り返って逆袈裟の一撃もかわす。
「──読まれてますね」
「ああ。読んでいる、と言うべきか」
遅れて来た沖田と斎藤は、そう会話していた。

 泉の斬撃の太刀筋を、洋子は完全に読んでいた。というか読める太刀筋なのである。泉は稽古している時、常に親の仇を相手に重ねていた。それが今も無意識のうちに残っているのに加え、沖田が病気になってからは自分が彼の代わりをするのだと気負っていた。そうした感情の動きが、攻撃の際にどうしても出てしまうのだ。常人には読めても反応できないほどの斬撃ではあるのだが、洋子にとってはかわすのは不可能ではない。
 そのうち泉が焦って、撃ち込みを深くする。そうなると身体のどこかに死角が生じ、洋子としてはそこに逆牙突を入れる腹だろう。今はどこに死角が出来るか探っている段階に違いないが、逆牙突を入れられるほどの死角はなかなか出来そうにない。さてどうするか見物だな、と斎藤は考えていた。
 泉は泉で、内心動揺していた。こうまで見事にかわされ続けたのは初めてである。自分の斬撃が相手の身体には掠りもせず、相手の身体の傍をすり抜けていく錯覚さえ持っていた。何故当たらないのか、彼女にはよく分からない。
《こうなったら!!》
奥義を出してでも勝つ、と思って洋子との間隔をいったん通常より開けた、その瞬間。
《今だ!!!》
一瞬にして洋子は逆牙突の構えに切り替え、そのまま突進して身構える直前の泉のみぞおちを強く突いた。大量の唾を吐いて、泉が倒れる。
「一本!」
永倉の声に、どっと歓声が上がる。ほっとした洋子が息をついた途端
   バコッ!!! 
背後から脳天に、竹刀か木刀か鞘か不明だがとにかく叩きつけられて卒倒した。
「この阿呆が、もっと早く済ませろ。それと他の奴もさっさと戻れ」
不機嫌面の斎藤が、倒れた彼女を引きずりながらそう言った。

 「まったく、この阿呆は。さっきも言ったが模範試合なんざさっさと済ませろ。後の稽古に差し支えが出る」
「差し支えが出るとか何とか言うくらいだったら、自分で手伝えばいいじゃないですか。人に押しつけてるからこういう時に困るんです」
一応、食事中である。斎藤と洋子は職場が全く同一なので必然的に食事を取る時間も同じになり、何のかんの言いつつ一緒に食事することもままあるのだ。
「それに、人がやっと模範稽古終わってほっとしてる時に、後ろから木刀でぶっ叩く人がどこにいますか。しかも気絶するほど強く」
「阿呆、あれは刀の鞘だ。第一かわせなかったお前が悪い」
「か…刀の鞘って…」
斎藤も洋子も、鞘は鉄製である。木刀より遙かに硬いもので叩かれたわけだ。これが屯所内なら確実に大喧嘩に発展するところだが、そば屋とあっては自制せざるを得ない。
「ま、半分以上自業自得だ」
やっぱり最低最悪の師匠だ、と思いつつ洋子はそばの汁を飲み干した。

 

 一方、泉はさっきの模範試合の時のことを思い出していた。自分の剣が掠りもせず、洋子の逆牙突一刺突できめられたのが納得いかないのだ。
《──何故かわされた?》
いつものように剣を振り下ろす。さっきの情景を思い浮かべながら、誰もいない道場で彼女は修行していた。そして横薙ぎ、袈裟斬り。あと一歩、いや半歩深く踏み込んでいれば勝てたはずだ。何故それが出来なかったのか?
「やあっ!!」
振り下ろすと共に、空を引き裂く音がした。連続して斬撃をすると、それに応じて空を裂く音が鋭く響く。さっきもこの音は聞こえていた。決して振り下ろす速度が落ちていたわけではない。なのに何故、よけられた?
 第一、泉の必殺技は懐深くもぐり込んでの抜き胴である。それが洋子相手には懐にもぐり込むことも出来なかった。常に一定の距離を保たれ、避けられていたのだ。或いは自分が押していると思ったのは錯覚で、実は──
「あれ、昼ご飯食べないの?」
沖田の声がした。屯所内の食堂で食べてきたらしい。
「さっきの模範稽古のことなら、気にする必要ないよ。大体斎藤さんが介入してきたせいで、三本勝負のうち一本しかやってないんだから」
「ですが、実戦ではその一本が全てです!」
泉は反発した。沖田は笑って
「洋子さんにとっては、今日のは単なる稽古であって実戦じゃないんだ。だから戦い方も稽古としてのもの。実戦だったらもっと積極的に攻めてる」
「──じゃあ、実戦だったら私は今以上に勝てないってことですか!?」
声を荒げた相手に、彼は首を振った。
「そうとも言えない。牙突ってのはどうしても死角が出来るから、そこを狙ってれば君が勝ってた可能性もかなり高いんだ。戦い方で勝敗なんてかなり違うよ」
だから、とやや語気を改めて言った。
「さっきはさっき、次は次。別人と当たるくらいのつもりで割り切った方がいい」
泉はやっと、やや明るい顔で頷いた。

 実はこれ、洋子が剣を習い始めた当初に斎藤に言われたことである。もっとも、その時の台詞は「俺が二度も同じ攻め方をしてやるほど出来た人間だと思うか?」だったのだが。

 

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