泉は、家に帰らない晩が結構多い。模範稽古のあった日も夕方が雷混じりの雨だったので、面倒になって屯所で泊まることにした。
「あれ、泉さん。帰らないの?」
伊東甲子太郎の講読会を終えた洋子が、泉の部屋を通りかかってそう言った。
「ええ、この雨ですし。家に帰っても一人ですから」
「そうか。まあもうしばらくしたら止むと思うよ。これ夕立だろうし」
遠雷が鳴り響いている。一時に比べてやや小降りになってきたようだ。
「ああ、天城先生、こちらでしたか」
三番隊の平隊士が声をかける。また斎藤さんの呼び出しかと思って顔をしかめる彼女に
「さっき、監察の吉村先生から情報が入りまして。長州系浪士が今夜、水野屋とか言う料亭で宴会するそうですよ」
「──分かったよ。すぐ行く」
もう、幹部隊士は大部分帰った頃だろう。今日の宿直は二番隊と三番隊で、事実上この両隊で手入れだな、と洋子はかなり暗くなった庭を見ながら予測していた。
いつもの打ち合わせ場所に来ると、既に組長二人は来ていた。伍長も四人中、すでに一人は来ている。
「で、また手入れですか」
入って、所定の位置に腰を下ろす。
「ああ。ちょっと敵が多そうなのが問題だが……」
永倉が応じた。監察の吉村貫太郎は皆が揃ってから説明を始めるつもりらしく、黙っている。斎藤は相変わらずの顔だ。
「泉さんがいますけど。彼も呼びます?」
一番隊は沖田の管轄だが、今日は帰ってしまった後だ。こういう場合は、伍長単位で隊士を借りることが時々あった。
「そうだな。おい、生田君」
と、永倉は部屋の隅にいる見習い隊士を呼んだ。泉を呼んでくるように指示する。
やがて、最後に泉が姿を見せると吉村の説明が始まった。
集合するのは少なくとも十五名。料理の内容から、大物が来る可能性があると言う。
「長州藩士が二人以上来るのは、予約した人間の訛りから間違いありません。あと土州脱藩浪士も来るそうです。恐らく二階か、離れ座敷の宴会場でしょう」
「大きい料亭なのか、その水野屋とやらは」
永倉が訊いた。吉村はええ、と頷き
「庭に池がありますからね。池田屋よりは随分広いです」
「そうか。で、場所は?」
床に広げられた地図上の一点を指し示す。そこを見た斎藤が、不意に言った。
「ここは、葵屋の近くだろう?」
言われて洋子はピクッとした。それを横目で見たのか
「よし、洋。お前そこに一足先に行って話をつけろ。集合場所に使う」
「──それは別に構いませんけど……」
今から行っても大丈夫かなあ、と洋子は考えた。向こうには向こうの都合がある。
「いいからさっさと行け。作戦は向こうで言う」
やれやれ、とため息混じりに頷いた。立ち上がって部屋を出る。雨はほぼ上がっていた。
今日は別に宴会の予定もないとのことで、翁は奥の一室を新撰組の集合場所に開けてくれた。洋子が約束を取り付けた直後に泉が数人を連れてきて、もし許可しなくても実力で居座るつもりだったらしいな、と翁たちは見ている。先日の暗殺未遂事件以来、洋子を間にした御庭番衆と新撰組の力関係は微妙に変化していた。
「斎藤さんから?」
「いえ、副長が後を追うようにと」
どうやら圧力をかけるつもりだったようだ。敢えてここに拘らなくても、と裏事情を知らない洋子は思った。
「まあお茶程度は出してもらうから、少しゆっくりして」
「──はい」
今日は沖田がいない。いつも自分の背後で戦うのを見ていてくれる、彼がいない。泉はそれだけで緊張していた。まして今日は、実質自分が沖田の代理だ。
「緊張してる?」
顔に出たらしく、洋子が訊いてきた。ええ、と頷く相手に
「まあ斎藤さんはああいう人だから期待する方が間違ってるけど、永倉さんは結構あてになるから。永倉さんの傍にいたら妙な事態にはならないと思う」
随分な言い種だ、と泉は呆れている。自分は父親にさえそんな言い方はしたことがない。
「──仮にも師匠でしょう、斎藤先生は」
「一応ね。けどまともに習ったのは竹刀の持ち方だけ。後はずっと課題こなすの見てるか立ち合いで叩きのめすか。それも初日から素振り五百回とか抜かすし、さすがに一度いつだったか、まだ稽古始めて間もない頃──雪の積もってる日に庭で裸足で稽古とか言われて、完全にキレて、それで盾突いて以来ずっとだから」
「──それはそれは…」
さすがに嫌だろうな、と思う。厳しいけれども困ったときには相談に乗ってくれる、尊敬されていた父や親切な沖田とは違うようだ。
「とにかく斎藤さんはそういう人。だから却って私でないと相手が出来なくて、斎藤さんが師範になると同時に私も事実上師範代になったんだけどね」
それまで師範代だった泉は、軽く驚いた。
「そうだったんですか? 私は沖田先生がああいうご状態だから傍についてて欲しいと副長に言われて、それで洋さんに交代になったと思ったんですが」
「そりゃ泉さんが辞めた理由はそうだろうけど、私が師範代になったのとは別。多分そういうことだろうと思ってる」
要するに、泉が師範代を辞めることと洋子が師範代になることは人事としては別の判断であり、それがたまたま時期的に重なったに過ぎないらしい。そう考えて、泉は思いついたことがあった。
「ひょっとして、斎藤先生がご自分で指導しないのも、そういうことじゃないですかね」
「──というと?」
洋子が瞬きをして問い返す。
「そういう性格の人が隊士を直接指導しても、反感持たれるだけでしょう。ご自分もそれをご存じで、だから洋さんにやってもらってるんじゃないですか」
しばらく沈黙が流れた。洋子としてはそんなことは考えたこともない。剣を習い始めた経緯から、ずっと斎藤に嫌われていると思いこんでいる彼女は、今までの斎藤の仕打ち全てを虐めだと思いこんでおり、泉が言うようなことが思いつくわけもないのだ。
「──だとしても、もう少しどうにか言ってもいいと思う。あの人、やって貰ってるにしては無礼過ぎる」
十を数えるほどの沈黙の後、洋子は息をついて言った。そして
「取りあえずその話は後にしよう。他の隊士が来る」
クスッと笑って、泉は頷いた。
「で、ここですか」
泉が訊いた。洋子と彼女は店の外で伏せておく隊士の指揮、討ち入りそのものは永倉、斎藤と残る伍長三人だ。下手に討ち入りの人数が多いと味方を斬ったり店員を巻き込んだりする可能性もあるので、最近は常にこうである。
「新撰組である。御用によって改める」
一応格上の永倉が、そう呼ばわった。店の女将が出てくる。
「はい? 何か御用でっしゃろか」
「御用によって改める。中に通して貰いたい」
永倉が口上を述べている間に、斎藤以下の四人は店内に入り込んだ。そして周囲の気配を探る。庭の方で宴会中らしい騒ぎ声が聞こえた。
「──あちらのようです」
前野が言う。頷いた斎藤は、振り返って永倉に一つ頷いてみせると主人の制止を無視して玄関を駆け上がり、座敷を駆け抜けて庭から左手にある離れ座敷へ直進した。 襖を開け、驚いて刀を抜く浪士たちの一人を無言で斬り捨てる。
「──抜刀斎がいないとはつまらんが、まあいい。死んで貰う」
改めて見回し、斎藤はそう言った。座敷の反対側から伍長三人が斬りかかり、たちまち乱闘になる。そこに到着した永倉が彼の脇を駆け抜けながら、刀を抜きかけた敵の一人を目にも止まらぬ早業で居合抜きに斬って捨てる。そして逃げる敵を追って庭に駆け下りながら肩越しに振り返り
「外が妙に騒がしい。抜刀斎がついたかも知れん」
「何だと!?」
残った一人の胸を牙突で貫きながら、斎藤は問い返した。
半月ほど前に原田の槍で傷を負った剣心は、今回は小五郎の提案で護衛にはつかないことになっていた。敵が来るようなら連絡するというので、傷を癒すことに専念しているつもりだったのだが、ついさっき連絡が来て水野屋に急いでいる。角を曲がった途端、伏せていた新撰組隊士とはち合わせになり、一刀のもとに斬り捨てた。
「ぐあっ!!」
断末魔の叫び声に、一斉に振り向く。薄明かりで左頬の十字傷が見えた。
「人斬り抜刀斎!」
その場に緊張が走る。近くにいる数人が突進し、一瞬のうちに斬り倒された。それにつられて前後から隊士が襲いかかり、泉も混じって斬りかかろうとした、その時。
「止まりなさい!! こいつは私が相手する!!!」
洋子が、剣心を見据えて言った。
全員の足が、ぴたりと止まる。事実上、この場の指揮者の命令である。
「そろそろ脱出に成功した浪士たちが、路上に出る頃。こいつは私に任せて、他の奴らの捕縛及び斬り捨てでもやってなさい」
剣心の傍を通り、泉の方に近づきつつ言う。刀は抜いていない。
「泉さん、あなたもこいつは私に任せて」
「ですが…」
「あなたは私に勝てなかった。同じ理由で、あなたはこいつにも勝てない」
断言され、泉は二の句が告げなくなってしまった。