るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』番外編 木津屋騒動(1)

 元治二年(慶応元年)三月、洋子は三番隊の伍長を務めるまでになっていた。
 別に好きでそうなったわけではない。もといた六番隊組長の井上源三郎が洋子の斬り込み隊長ぶりに手を焼き、「あの子は儂には制御しきらん」というので彼女が最も苦手としている斎藤に預けることになったらしいのだ。らしいというのは、洋子自身は結果を通知されただけで理由などは噂を聞いての推測に過ぎないためである。
「あー、桜がきれいだろうなあ」
縁台で春霞を遠くに見ながら呟く。今日は組長以上の幹部は、近く上洛する将軍家茂の警護打ち合わせのため二条城に行っており、屯所にはいない。本来ならば局長と副長、せいぜい参謀(伊東甲子太郎)程度までが行けばいいのだろうが、京都守護職の松平容保が「一度、組長達の顔を見ておきたい」というので連れていくことにしたのだ。
 当然今日は市中見回りもなしで、留守番の伍長以下もどこかのんびりしている。道場に出ている隊士もいつもの三分の二程度で、他は部屋で雑談だ。
「ああ、天城先生。いましたか」
「山崎さん。どうかしたんですか」
屯所の外から入ってくる商人ふうの男に、洋子はそう声をかけた。監察の山崎丞だ。
「いや、さっき木津屋にご機嫌伺いに行ったらですね。おかみさんが今日の夜は宴会の予約があるって言うんですよ。で、その予約した側の様子を聞いたら…」
「長州系の浪士っぽい──と」
ええ、と山崎は頷いた。洋子は少し思案する。
 今日は伍長以下は全員屯所で待機だから、序列から行くと一番隊の伍長が最も格上になる。本来ならまずそちらに報告すべきだが、上位幹部との関係から洋子が実質的に伍長の筆頭を努めていた。山崎もその付近は心得たもので、接近を怠っていない。
 十中八九、近藤たちは打ち合わせが終われば祇園に繰り出して今夜は帰ってこない。かといって知っていて逃したとなれば責任問題になる。
「宴会の人数は?」
「十人ほどだそうです。──どうします?」
ふう、と息をついた。ややあって彼女は立ち上がり
「三番隊の私の直属にだけ、動員をかける。近藤先生たちも今日は帰ってこないだろうから、山崎さんも木津屋に来て下さい。私は説明が終わったら、現場で張り込みます」
「分かりました。そうします」
これが、未の二刻(午後一時半から二時)のことである。

 

 さて、一方木津屋の二階では。
「斎藤さん。行きましょうよ、奈良」
「俺は行かんぞ。あんな寺ばっかりの町は京都で充分だ」
雪乃(そう、HP『若草屋』の看板娘である)が斎藤と話し込んでいた。
「今だから行きたいんです。『古の奈良の都の八重桜』って言うし」
「──何だそれは」
古典関係の教養はまるでない斎藤は、和歌の上の句らしいその言葉にもピンと来ない。
「あ、知らないんですか。『今日九重に匂ひぬるかな』って、百人一首の中の有名な歌ですよ。伊勢大輔が歌った」
何やらそういうのがあるというのは聞いたことがある。
「さすがは文学師範様だな。行きたければ勝手にしろ」
「あ、だったら数日後の奈良出張、ついて行こうかな」
さすがに斎藤も顔色を変えた。
「──おいおい」
「だって、勝手にしろって言ったの斎藤さんじゃないですか。往復だけ一緒にすれば、誰にも迷惑かけませんし」
「あのな。それとこれとは話が…」
「男子に二言なしですよ、斎藤さん」
言いこめられ、更に例の笑顔を向けられては応答が出来ない。この光景を洋子辺りが見たら笑い出すか一緒になって斎藤をからかうか、どちらかになるのだが。
「──あれ、洋子さんじゃないですか?」
そのまま立ち上がり、外を見ようとした雪乃がそう声を上げた。
 なぜ男装の洋子の正体を知っているかというと、先日雨が降った日に洋子がここで雨宿りをし、濡れた衣服を雪乃に押し切られて着替える羽目になった時にばれたのである。一応普段は隊士としての名前で呼んでいるのだが、この場ではそんな配慮は無用だ。
「──確かにな。しかし何であいつが…」
まだ顔形はよく見えないが、あの背格好は洋子に間違いない。
「そう言えば、斎藤さんが来る前に山崎さんらしい人が来てましたけど」
雪乃はそう言った。らしいとは変装のせいだろう。
「おかみさんが言うには、今日の夜の宴会のことを訊いていったとか。──あ、やっぱり洋子さんだ。洋さんー!!」
雪乃は手を振った。声が聞こえて木津屋の二階を見上げた洋子に、彼女の笑顔が見える。
《──?》
その隣、やや奥に斎藤らしい人影がいた。そうかと思うとふっと屋内に消える。
「雪乃さん、そっちに斎藤さんいる?」
大声で問いかける。雪乃も大声で
「うん、いますよー!」
阿呆、言うなと背後で斎藤が呟く。実は彼、雪乃には今日は非番と言ったのだ。仕事は終わったのだし、皆が祇園に行くというので抜けてきたのである。
《何で今頃ここにいるんだ、斎藤さんが》
仕事中ではないか、と洋子は思った。

 「おかみさん、雪乃さんいますか?」
「ああ、二階にいるよ」
取りあえず一声かけておいて、洋子は階段を駆け上がった。
「どうも、お久しぶりです、雪乃さん」
定期的に屯所に来てはいるのだが、洋子が雪乃に教えられたことはない。文学師範も二人いて、雪乃は基本的な習字から教えるのだがもう一人の毛内は漢文を教え、洋子が参加しているのは漢文の方なのだ。従って話す機会はそう多くなく、たまに一緒になって斎藤をからかったりしている程度である。洋子の場合一人の時はそうでもないのだが、雪乃と組むと日頃の憂さ晴らしとばかりにからかう。
「で、斎藤さん。仕事はどうしたんですか」
一転して、厳しい声で問いかける。
「仕事って、非番じゃないんですか?」
事実を知らない雪乃が、そう質問した。事を悟って怒った洋子は刀に手をかけ
「非番なんかじゃないですよ。今日は京都守護職会津中将松平容保様に拝謁する日だったんですから。ついでに言うと将軍ご上洛の際の警備の打ち合わせの日。こんな所でのんべんだらりと話してられる場合じゃないはずなんですけどね」
「あー、斎藤さん、嘘ついたんだあ」
雪乃がそう言った。実はそういう次元の問題ではない。刀を抜いた洋子は
「取りあえず、事情を説明して貰いましょうか」
と言うなり、牙突を左右逆にした構え──後に逆牙突と称される──で斎藤に突進した。第一撃はかわしたものの、この狭い室内で斬り合うわけにも行かない。
「おい、雪乃。どうにか言え」
「知りませんよ。嘘ついた人が悪いんですから」
済ました顔で応じられ、斎藤は舌打ちして、突進する洋子の刀の背の側に回り込んで腕を取ると、柔術の要領で床に投げ飛ばした。低いが大きな音がして、彼女が延びる。
「──いったあ……」
呻き声が聞こえる。何とか上体を起こした相手に
「取りあえず、そっちの方は終わったんだ。祇園で騒ぐよりはこっちにいた方がいい」
と、簡潔に事情を説明する。
「だったら、一度屯所に戻ればよかったでしょう。こっちは大変なんですから」
大変、という言葉に残る二人は顔を見合わせた。

 洋子は山崎から聞いた話をその場の二人に伝えた。
「丁度良いですから、斎藤さんは屯所に戻って三番隊の残りを連れてきて下さい。あと集合場所にいる三番隊全員の指揮。宴会の正確な時間が分からないのが困りますけど、刻五つ(午後八時)には始まってるでしょうから。雪乃さんも、出来れば今日はここにいない方がいいです。巻き込まれたら大変ですし」
「──お前、いつから俺に指示を出せる立場になったんだ」
と、斎藤が皮肉混じりに訊く。洋子は一瞬怯んだが
「別に指示じゃないですよ。要請してるだけです」
「いいじゃないですか、今日くらい。斎藤さんが嘘ついたのは事実なんだし」
と、雪乃が口を挟んだ。応じて
「だからあれは、仕事が終わって…」
「だって、非番なのと仕事が終わったのとは、やっぱり違いますよ。私に嘘ついたのは事実でしょう。やっぱり償わないとねえ」
「そうですそうです。雪乃さん、偉い!」
面倒になってきたと既に頭痛を感じつつ、斎藤は反駁する。
「だからって、何で俺がこいつの言うことを聞かねばならんのだ」
「そりゃあ、私が決めたからです。斎藤さんは洋子さんの言うことを、今日一日きかなきゃいけないって」
洋子は拍手喝采である。何だそれは、と斎藤は思ったが、これ以上反発して洋子にまで言われるのも面倒だ。一息ついて立ち上がり
「分かった分かった。行って来るから見張ってろ」
と応じて、その部屋を出た。襖を閉めた後、残った女二人はやった、やったと手を取って喜び合い、その後楽しげに話し込む。