るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』番外編 記憶(1)

 屯所の中を、早足で洋子は歩いていた。ある部屋の前で、そーっと扉を開ける。
「やあ、天城君。ちょうど良かった、これから始めるところだよ」
「お待たせしてすみません、伊東先生」
部屋には、すでに十人ほどの隊士が座っている。いつもの席である一番前の左端に腰をおろして、洋子は持っている冊子と紙を広げた。
「昨日言った通り、今日から源氏物語の購読に入るよ。まず作者と時代背景の確認からだ」
伊東の質問に、洋子も含めたその場の隊士たちが答えていく。夕暮れ、宿直以外の隊士たちが帰ってしまう頃の、屯所での光景だった。

 「いづれのおほむ時にや、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に…」
「また何をぶつぶつ言ってるんですか、洋子さんは。食事が不味くなりますよ」
その日の夜、お夢はわけの分からないことを呟いている洋子にそう言った。
「何って、明日の宿題よ。伊東先生の」
「──またですか。そんなの食事食べ終わってからでいいでしょう」
「だってねえ、明日までに暗唱しなきゃいけないの。どうせ斎藤さんにぶっ叩かれて一つか二つの語句は忘れるんだから、その分しっかり覚えておかないと困るの」
「だからって、そんなことしてたらせっかく葵屋さんから貰ってきた果物がぬるくなりますよ。井戸で冷やしてたのに」
「──って、これ?」
まだ市場では高い値段の桃が切られて、食卓の上に並んでいる。
「そうですよ。今朝洋子さんが出ていった直後──」
そこから後は言うのを止めた。当の洋子が物凄い勢いで食べはじめたからだ。

 自分との会話がきっかけになったということもあり、洋子は伊東甲子太郎の開いている古典の時間には必ず参加していた。彼女にとってこの時間は、毎日の激しく厳しい隊務の中で唯一心静かに過ごせる時間なのである。上達しない隊士の指導法や斎藤とのあれこれ、巡察での事件など、この時だけは忘れられる。
「──ふう。やっぱり難しいですね」
源氏物語は、と洋子は思う。桐壺だけを読むのにも一苦労である。
「しかし桐壺の更衣って、よっぽどきれいな人だったんでしょうね」
「だろうね。帝の寵愛を一身に受けて」
正規の購読が終わった後、雑談形式で講議の内容についてその場の皆と談笑する。今で言うなら誰かというところで有名な美女の名前が数人あがったが、結論は出なかった。
「そうそう、天城君」
「はい?」
その日の帰り際に、洋子は伊東に声をかけられた。
「私は、三日後にある貴族と会う。その時君も来ないかい?」
「はあ!?」
洋子は思わず、大声で問い返してしまった。

 伊東は、前から周旋活動と称して貴族や各藩の論客と個別に会うことが良くあった。近藤はともかく土方はそれを快く思っていないようだったが、所詮は上層部の問題であり洋子たちにはさほど関係ない。だが、それも伊東の単独行動であるうちだけだった。他の隊士、なかんずくもともと伊東派でない者たちを連れていくとなれば、話が違ってくる。
「私などが行っても、大してお役には立てないでしょうに」
「いやいや、ついて行くだけでいいんだよ。実際の話は私がする」
「──ですが」
洋子は二重の意味で困惑した。一つは伊東の周旋活動に自分が同行することで周囲に与える影響。もう一つは。
 ──自分の正体が、ばれるかもしれない。

 朝廷との付き合いの深い高家・畠山家の姫君で、従兄弟と結婚して跡を継ぐことになっていた彼女は、売られる前には家に来る公卿や武家のお偉方とかなり会っていた。父親が紹介も兼ねて彼らと引き合わせたのだ。当の本人でなくとも、彼らの配下の者たちと会うことも多く、顔を覚えている者がいても不思議ではない。
 売られた時、一応公式には死んだということになっているだろうが、その日の昼まで病気もせずに父親の亡骸の傍にいた『静姫』が、急に死んだとなれば内心で不審に思った者もいただろう。まして婚約者だった従兄弟は、その日の夕方まで姿を見せなかったのである。
 そうした知り合いたちは今のところ売られたとまでは知らないだろうが、自分の顔を見て不審に思った誰かが調べれば、分からない事実ではない。そして、今の自分にとって「正体が公になる」ことは「新撰組にいられなくなる」ことに他ならない。
『──また、あの偽善と謀略と──私を捨てた奴らがいる世界に戻るわけ?』
冗談ではない。今の境遇を作り出した元兇の者たちとまた顔を合わせるくらいなら、斎藤と喧嘩して気絶でもしていた方が遥かにましである。
『奴らは、私をモノとしてしか見なかった。刀でさえ心があり、持ち主を選ぶというのに、私に心があることなど認めようとはしなかった。そして従兄弟でありながら、婚約者である私を捨て、売り飛ばした』
あの夜のことを思い出すと、吐き気とぞっとするような寒気と斬り殺したくなるような嫌悪感が、一度に襲ってきた。──売られた頃は、泣いてばかりだったっけ。
 それが試衛館に引き取られて、いつの間にか泣かなくなった。そして売られたことも普段は思い出さなくなり、自分を売った婚約者の顔さえも忘れてしまった。今の自分は、もうあの世界には戻れないし戻りたくもない。どちらか選べと言われたら、躊躇わずに今を取る。やっていることが人殺しだろうが師匠が無茶苦茶だろうが、自分を捨てた者たちの下に行くくらいならここの方が遥かにましだった。

 そこまで考えて、洋子は寝返りを打つ。ため息が漏れた。
 何故、こうまで毛嫌いするようになったのか。あの頃は平和で、叩かれたり罵られたり怒鳴りつけられたりすることもなく、毎日ちゃんとした着物を着て、着替えも手伝ってもらって、それなりにいい日々だったはずなのだ。客観的に見れば今より恵まれた生活だったはずなのに、いくら売られたからと言ってそれ全体を否定してしまう自分自身に、彼女は戸惑っていた。──売られたこと以外、別に悪い思い出もないのに。
 そこで再び寝返りを打った途端、外から人の気配がした。この真夜中に、怒鳴り声さえ聞こえる。走っているような足音も。
『何ごと──?』
洋子は立ち上がり、土間に下りて外の様子を伺った。
『──誰か追われてる──?』
声は確かに、それらしいことを伝えていた。しかも訛りは、長州である。
 彼女が薄く玄関の扉を開けたのと、その人物が残りを開けて中に飛び込んできたのと、一瞬も差はなかっただろう。飛び込んできたその人物は、自分が開けた扉をすぐにぴしゃりと閉めて一息ついた。
「──済まないが、水をくれないか」
その声に、洋子は確かに聞き覚えがあった。
「緋村──!?」
その声に彼女の方を見た相手には、確かに頬に十字傷があった。

 「────」
互いの正体を認識した双方は、しばらく一言も声を発しなかった。
「──追われてたようだけど?」
どうにか無難な言葉を見つけて、洋子は声をかけた。
「───誤解だよ。俺がどこかと通じてるんじゃないかって言う」
「何でまた」
「──所詮人斬りだから、信用がないらしい」
そう言って、剣心はため息をついた。

 人斬りを蔑む人々が、長州派の中にいる。そういう中の一部が、情報が漏れたらしいのを剣心のせいにして殺そうとしていたらしいのだ。無論、桂小五郎は分かってくれているが、下の連中の中には偏見を持っている者も多いのだと剣心は言った。
「──自分が守ってもらってる癖に」
「仕方ないさ。俺はよそ者だし」
洋子は応答できなかった。味方に疑われているのに、諦めが良すぎる。
「外の人気が消えたら、すぐ出る。桂先生に会わないと」
彼らの誤解を解いてもらう、と外の気配を伺いながら剣心は言った。そして振り返ると、洋子が水を運んできている。
「──済まないな」
「敵に塩を送る、ってこういうのを言うんじゃない」
遠慮なく湯のみを取って飲み干す相手に、洋子はそう言った。
「違いない。感謝するよ」
応じておいて、剣心は笑った。どこか沖田に似た笑みだった。

 「──所詮人斬り、か」
剣心が出て行った後、洋子は考えていた。古い記憶が、頭をよぎる。
 所詮、下賤の血の混じった子──。父の正室は、時折彼女のことをこう呼んだ。
 実の母は、厨房勤めをしていた。侍女と言っても身分はかなり低い方で、何故父がそんな母を知ったのか、よく分からない。自分に子供がない場合、それでも夫の子に家督を継がせるために正室が側室を推薦することもあるようだが、父母の場合は正室のあの様子ではそうではない。そして母は身ごもり、自分を生んだ。
 厨房勤めの女に、家を継ぐ姫君を育てさせるわけにも行かなかったのだろう。結果、静は生まれてすぐに実の母親から引き離されて、正室と彼女の選んだ乳母に育てられた。
 正室はどこか冷たく、静は敬遠されていた。そして静が何か失敗したり、高家の姫君として相応しくないことをすると、明らかに見下した──斎藤とはかなり違った意味で──表情で自分を見やるのだ。そして時折、先の台詞が漏れるのである。──下賤の血、と。
『──そういうことね』
正室も従兄弟も、自分を一人の人間として認めてくれていたわけではない。それが本能的にどこかで分かっていたから、さっきああまで拒否したのだ。

 

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