るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』番外編 夕暮れは…(1)

  夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて
 古今和歌集の一節である。詠み人知らずの歌だ。
 洋子はこれを、伊東甲子太郎から習った。

 その伊東は、数日前から近藤について芸州(広島)まで下っている。幕府が長州に問罪使を派遣することになり、その家来という名目で近藤たちはついて行ったのだ。近藤が何の役に立つのか、と留守を預かる土方辺りは思っているのだが、どこをどうしたのか近藤以下の数人が行くことになり、その中に伊東もいるのである。
 当然、洋子が楽しみにしている勉強会もこの期間はない。結果として早く帰ることになる彼女は、家で晩秋から初冬にかけての夕暮れを見ながらこう言った。
「あのさあ、お夢。天つ空なる人って、どんな人だと思う?」
「ななな、何ですか、いきなり」
またこの人は、とお夢は思った。時折、洋子はいきなりとんでもないことを言ったりしたりするのである。いきなり刀を振り回すのにはさすがに慣れたが。
「いえね、伊東さんに習ったのよ。『夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて』っていう和歌なんだけど」
「え、夕暮れは雲の…ホタテ?」
「雲のはたて。雲の果て、の昔の言い方よ」
そう言って、洋子はもう一回その歌を暗唱した。それで覚えたらしいお夢は
「へえ…。結構いい歌じゃないですか」
「でしょ? で、この『天つ空なる人』がどんな人かと」
何だ、とお夢は思った。てっきり手紙か何かの暗号かと思ったのだ。
「天の空にいる人、ですよね。普通に考えたら」
「そう。だけど、竹取物語じゃあるまいし」
文字通りの天人という意味ではないだろう。何かの比喩なのだ。
「──死んだ人、っていう意味じゃないですか?」
死んで、極楽浄土に召された人。六道輪廻で言う天上界に行った人。そういう人のことを指すのではないかとお夢は言った。
「そうか、お夢はそう解釈したわけね」
洋子はそう呟いた。お夢が相手の顔を覗きつつ
「そう言う洋子さんは、どう解釈したんですか?」
と訊く。再び窓の外、夕暮れの残りを見やって
「身分違いの──自分より遙かに身分の高い人に──恋をしたんじゃないかって」
言った後、息をついた。そして笑うと
「この説と死んだ人って説と、習ったとき議論になったのよ。結論出なかったけど」
だから、お夢はどう思うかなと思って、と笑顔のまま洋子は言った。
「詠み人知らずだし、実際どっちでもいいんだけど。──ただ」
「ただ?」
「──いずれにしても、作者には叶わぬ恋だったってこと」
一瞬真剣な顔になってそう言い、ご飯を口の中に放り込んだ。

 

 近藤がいないせいもあって、隊内は比較的気が緩んでいる。
 もっとも土方が「近藤先生の留守中は、ますますもって隊規に厳重に服していただく」と申し渡しているので、その限りでは粛然としているのだが、まず京都守護職の置かれている二条城や、会津藩の本陣たる黒谷に近藤が行く際に連れていく、二十人以上の供回りがない。ということはそれだけ隊士の自由になる時間が増えるという意味でもあり、洋子自身黒谷まで出かけて会津藩士と稽古したりしていた。
「どうも、また来ました」
他にも隊士が来ているので、名目上は彼らの監督である。斎藤の隙を見て、逃げるようにここに来るのだ。その彼は舌打ちしているが、別に怠けているわけではないので文句が言えない。天城洋の強さは評判になっているらしかった。
「お、天城君。また抜け出しかい?」
「ええ。斎藤さんは会議中で」
そう言って、周りを見回す。──と、えっと…。
「あ、いたいた。鹿沼先生ー!」
洋子はそう声をかけた。相手の年の頃は二十代前半、斎藤や沖田と変わらない。だがこちらの方は育ちの良さを感じさせる青年で、顔もそう悪くはない。
「ああ、天城君か。仕事の方はいいのかい?」
「はい、大丈夫です。うちの隊士がお世話になってます」
十人ほどがここに来ている。もともと近藤が守護職などと会談しているときは、供回りはそこの道場で稽古してもいいということになっていたので、前から来ている隊士もいるのだ。土方も、刺激になるという理由で大目に見てくれている。
「鹿沼先生、また稽古つけて下さい」
「ああ、いいよ。でも少し待ってて」
そう言って、鹿沼は高槻という名前を呼んだ。
「お久しぶりです、高槻さん」
洋子は頭を下げた。鹿沼と高槻は同じ斎鬼鹿沼流の剣客で、鹿沼の方が流派の跡取りだ。腕はほぼ互角で、洋子の見立てでは新撰組の幹部とも互角というほどの物だ。
「ちょっと彼の稽古相手してやってて。私は用事があるから」
言い残して、鹿沼は奥の方に走っていく。高槻は彼女の顔を覗き込んだ。
「俺でいいか?」
「あ、はい。別に──」
と言って、洋子は胴丸を身につけ始めた。

 「ったく、あの阿呆は」
また黒谷の金戒光明寺か、と斎藤は呆れた。そこに守護職の本陣があるのだ。
「師範代の仕事を放り出しやがって」
「何でも、気に入ってる人がいるみたいですよ、そこに」
と、沖田が口に出した。
「斎鬼鹿沼流の剣客で、腕は我々とほぼ互角とか。名前は──」
「鹿沼達三。他に高槻厳達、時雨滝魅とかいうのがいて、合わせて鹿沼三羽烏らしいな」
軽く驚いた表情で、沖田は斎藤を見上げた。
「あの阿呆が喋るからな、嫌でも覚える」
「そうですか。──行ってみたらどうです、気になるんなら」
「別に気になるわけじゃないさ。阿呆の態度にむかついてるだけだ」
ちょっと午後から出かける、とそこで斎藤は突然切り出した。
「それは構いませんが、どこへ?」
「土方先生について、会津本陣までさ」
それを聞いて、沖田はクスクス笑った。とうとう連れ戻しに行くつもりらしい。

 「鹿沼流・消月剣!!」
「うわっ!!!」
低いが大きな音がして、洋子は空中に跳ね飛ばされた。
 床に叩きつけられ、更に鹿沼に喉元に木刀を押しつけられる。
「──参りました」
そう言って、彼女は頭を下げた。相手はもう一方の手をすっと差し出す。
「二対一か。やっぱり鹿沼先生の方が強いな」
「けどよ、天城君もかなり腕上げてきたぜ。二本目の刺突は見事だった」
「ああ、さすがに──」
   バキッ!!!
いきなり、叩く音がした。次いで罵声が聞こえる。
「この阿呆が、いつまでこんなところで水売ってるんだ。帰るぞ!!」
「──斎藤さんも、こんな所なんて言うんだったら来なけりゃいいじゃないですか。それに私だって遊んでるわけじゃなし──」
「まあまあ、二人とも」
と、鹿沼が間に入った。そして斎藤に向き直り
「私は、鹿沼達三と申します。斎藤一先生とお見受けしましたが」
礼儀正しく一礼する。斎藤もさすがに一礼して応じた。
「鹿沼先生ですか。申し遅れましたが、私は新撰組三番隊組長の斎藤一です。うちの阿呆を始め、何人かお世話になっているようですな」
「いえいえ、こちらこそいい刺激になっております。貴方の話も伺っております」
「それはそれは──」
と言いつつ洋子を後ろ手で軽く捜したが、当の本人はさっさと逃げ出してしまっている。内心舌打ちした斎藤を、知ってか知らずか鹿沼は
「折角いらしたついでです。我々にも一手お教え願いたいものです」
と言って、軽く眼光でしかける。洋子はまずいなという顔になったが、斎藤は応じた。
「──そうですな。ただ、貴方は他の者の指導でお忙しいでしょうから」
「では、高槻君を呼びましょう」
新撰組の剣術師範とこの道場の事実上の元締めが正面切って手合わせするのは、後々の影響が大きすぎる。師範代である洋子ならば所詮は格下なので大した影響はないのだが、斎藤と鹿沼は同格なので、勝った負けたが会津藩と新撰組の関係に影響することも考慮しなければならず、それ故に高槻を呼んだのだ。
「高槻厳達と申します。斎藤先生には、お初にお目にかかります」
現れた青年は、恭しく一礼した。年は鹿沼とほぼ同じだ。
「高槻先生ですか、斎藤一です」
相手が礼儀正しいだけに気勢を殺がれる、というのが正直な斎藤の心理である。そして洋子がここに入り浸る理由も何となく分かった。
「それはそうと、試合をするなら木刀を借りなければ」
「ああ、どうぞ。──と、高荷君。君に審判を頼みたい」
「あの、私がですか? 鹿沼先生」
出てきたのは、鹿沼や斎藤よりもやや若い青年だった。やや柔弱な雰囲気がある。
「ああ。君は江戸詰めで神道無念流だったから、こういう他流試合にはもってこいだ」
どうやら、鹿沼はあくまでも公平を期するつもりらしい。会津藩士らしいなと斎藤は思った。決して悪い気はしない。
 そしてこの三人以外が着座すると、
「えっと、では…。斎藤一対高槻厳達、始め!」
高荷の号令で、試合が始まった。