るろ剣インターネット版同人誌

『幕末秘話』番外編 夕暮れは…(3)

 夜。料亭で一杯ずつ杯を空けた後、鹿沼は切り出した。
「──斎藤先生は、お酒が大層お強いとか」
「洋がそんなことを言ってましたか。耳汚しで」
苦笑しつつ一礼した。顔は普段のままだ。
「いえいえ、やはり酒の席でしか出来ない話はありますから」
下戸相手だと話しづらい、と言うのだろう。確かに斎藤にもそういう経験はある。
「うちの洋が粗相をしていませんか、そちらで」
「いいえ。我が藩の藩士よりもよほど礼儀正しいし、しっかりしていますよ、天城君は」
というかむしろあれは、と言いかけて、鹿沼は口ごもった。ややあって
「天城君というのは、一体何者なんです?」
と、一瞬真面目な顔で訊いたかと思った次の瞬間、ふわっと笑った。

 「洋が何者か、ですか」
斎藤の声が真剣になる。鹿沼は微笑して、酒を一口飲んだ。
「黒谷に来たときはあれだけ礼儀正しい彼が、屯所に帰ると師匠である貴方にさえ平気で罵詈雑言、喧嘩を売る。そして貴方も、口では何だかんだ言いながらもそれを認めている。我が藩では考えられないことです」
「──別に、認めてはいませんよ。あいつが治らないだけで」
そう言うことか、と斎藤はやや気を緩めた。会津藩では儒教道徳がかなり浸透しており、それで行くと弟子が師匠に正面から盾突くなどあってはならないのだ。
「まあ、少し諦めている面はありますがね。しかし、貴方がどこまでご存じか知りませんが──」
売られた先で虐められ、ひどい熱があるにも関わらず真冬に外に放り出されたまま眠っているのを沖田が拾ってきて、そのまま引き取って居候になったのだ。
「それ以前のことはよく知らんのですよ、私も」
と、斎藤は言った。こちらも酒を一口飲む。
「妙に教養はあるし、読み書きも出来るから多分裕福な家の娘だったんでしょうが。何しろあいつ自身、自分の過去は一切話しませんし」
「貴方たちにも調べる気はない、と?」
斎藤は頷いた。鹿沼は
「なるほど。よほどそちらにとって大切な存在と見えますね、天城君は」
言って、相手の反応を確認する。

 斎藤は言葉に詰まった。刺身を一切れ食べて、鹿沼は続ける。
「人の過去など、調べれば分かるものです。それをやろうとしないのは、貴方たちが調べた結果を知りたくないからでしょう? 知ればひょっとすると、彼と別れなければならないかも知れない。それが嫌だから──」
失礼しました、これ以上は単なる無礼ですねと彼はそこで話を切った。
「──別れるかどうかは、結局は洋が決めることです」
斎藤の言葉を、鹿沼は黙って聞いている。
「ただし少なくとも、こちらからあいつを手放すことはしません。我々にあいつを守るだけの力がある限り、手元に置いて守り抜く。そのために必要なことはやるし、必要でないことはやらない。それだけの話です」
「──守るべき存在ということですか、天城君は」
鹿沼の台詞は、あくまでも自然な穏やかさを保っている。
「ええ。本人が全く意識していないのが困りものですが」
苦笑混じりの顔を作って、斎藤は応じた。更に続けて
「洋が我々のところに来た当初は、死んだような瞳をしていました。諦めと絶望と不安と孤独。無表情で、私の言うことを聞くには聞くんですがほとんど喋らない。ひどいときには三日以上、一言も喋らないことがありました」
「そんなことがあったんですか」
自殺でもするんじゃないか、或いは家出でもやらかすのではないか。周りがそう心配するくらい、ひどく落ち込んでいた。沖田辺りは夜中に泣き声を聞いたと言う。
「実際にはキレたんですがね。雪の庭で寒中稽古をやろうとしたら『殺す気ですか』とあいつが訊くから、『この程度で死ぬ奴はいない。風邪引いたら勝手に寝てろ』と応じたんです。そしたら何を勘違いしたのか」
キレた。それ以来、基本的には今と変わらない状況が続いている。
「──ここだけの話、ある面でほっとしたのは否定しません。ケンカできるだけの関係になったってことですから。そうでなければ顔も合わせないし口もきかない。ぎゃあぎゃあ怒鳴り散らすのはそれだけの関心と余裕がある、ってことですから」
「関心と余裕、ですか。分かりました」
鹿沼はそう言って、またふわっと笑った。

 実は近く、一度故郷に戻らないと行けないんですと鹿沼は言った。
「ほう、それはまた何故」
「祝言を上げるんです。会津で」
祝言、とはこの場合、要するに結婚式のことだ。
「まあ、半年くらいしたらまた来ますがね。黒谷の道場は、そう長期に渡っては放っておけない。うちの時雨君と高槻君が守るとはいえ」
教える人間は多い方が、上達も早い。まして我々はそちらのように武術に精通した者ばかりではないので、と鹿沼は言った。
「ですから、こちらとしては新撰組の隊士が来て下さるのは大歓迎なのです。もしそちらの仕事に差し支えがあるというなら、こちらから出向いてもいいです。斎藤先生も、我々を助けると思って、目くじらを立てずにいて下さい」
「──分かりました。そうしましょう」
鹿沼はほっとした様子で、息をついた。

 「──昨日、鹿沼先生と何を話してました?」
道場で木刀を取りながら、洋子はそう訊いた。斎藤は面倒そうに
「何を話そうとこっちの勝手だ。お前にどうこう言われる筋合いはない」
「別に詮索する気はないですよ。どうせ私の悪口ばっかり言ってたんでしょうし」
  バキッ!
「自分とごっちゃにするな、阿呆。──そう言えば、近く会津に帰るとか言ってたな」
「とっくに知ってますよ、それくらい」
洋子はそう応じた。そして庭に下り、こう呟く。
「天つ空なる人、か…」
分かっていたけどやっぱりこうなったか、と心の中で続けたのである。