第一章 駆け落ち
ブランデン大公国の首都・バーリガルド。時はオイラープ暦一二三二年、十月。軍服姿で館と言える大きな家に帰ってきた、金髪に青い目の男が切り出した話題は、その大公家のことだった。
「アルプレヒト殿下のご結婚のお相手が、決まったそうだ」
それを聞いた黒い髪に黒い瞳、雪のように白い肌の女性が喜色を浮かべて
「まあ、それは宜しゅうございました。して、お名前は?」
「ベーベルン侯の姫君、ルイーゼ殿下だ。大人しい方と伺っている」
女性はすぐに思い出した様子だった。
「ああ、かねてお噂に上っていた、あの」
「そうだ。来年の夏に式を挙げられるらしい」
歩きながら脱いだ軍服の上着を召使いに預け、二人は並んで食堂に入った。年齢は男の方が三十そこら、女の方が二十くらいであり、結婚してさほど間がない様子である。前菜代わりのチーズとワインがテーブルにあり、廊下にいたのとは別の召使いにワインを注いでもらってそれを一口飲むと
「殿下のお相手が決まったことだし、そろそろ姪の相手も決めんとな」
「ブリュンヒルドさんの?」
男の方は頷いた。グラスを置くと
「若い士官の一人に、目星を付けてはいるんだが…。兄上にご連絡しなければならんな」
「そうですね。向こうでも探しているかも知れませんから、なるべく早く」
男は、テオドール・ヘルベルト・フォン・ミュンツェル。騎兵第一連隊の隊長で、若手の出世頭として頭角を現してきた頃である。そして女の方は、妻のシュザンナだった。
その頃、大学から久しぶりに家に帰ってきたシュタインベルク伯爵家の長男・オットーは、アルプレヒト婚約の報を母親から初めて聞いた。
「お噂のあの方ですか。明日にでも早速、殿下にお祝いを申し上げてきます」
母親のカロリーネ・ルイーゼは、太った体で紺色の瞳を持ち、目尻にしわがあって薄い褐色の髪に白髪の混じっている中年女性だった。その彼女は息をついて
「それもいいけれど、お前もそろそろ結婚相手を決めなければ」
オットーはビクッとなった後、やや強い口調で
「お言葉ですが母上、私はまだ学生ですし、まだ二十二歳です。相手を決めるには早すぎます」
「それならば、火遊びもほどほどにすることです」
はっきり言われ、一瞬言葉に詰まる。だが彼は数秒後
「母上、私は火遊びなどする気はございません」
「ならばいいのですが。あなたはこのシュタインベルク伯爵家の長男なのですから、身分相応の娘と結婚してもらわなければ困ります」
それが何を指しているか、オットーには即座に分かった。鋭い光を帯びた蒼の瞳で無言でカロリーネを見据えていたが、数秒後にきびすを返して自分の部屋に向かう。
「オットー様、お飲物をお持ちしました」
ベッドで横になってぶつぶつ呟いていたオットーに、廊下から声がかかった。
「ん、アンナか。入ってくれ」
入ってきたのはまだ十代前半、やっと大人になりかけたかという少女だった。栗色の髪にやや大きな青い瞳、取り立てて美人ではないが優しそうな雰囲気の彼女は、アンナ・フォン・プットカマーという爵位を持たない下級貴族の娘である。行儀見習いとの名目で住み込みで働いている彼女は、押してきた台の上でカップにコーヒーを注ぎつつ
「アルプレヒト殿下が、ご結婚なさるそうですね」
「ああ。明日、お祝いを述べに宮殿に参上する」
「そうですか。衣装係のヨーゼファさんにお伝えしておきますね」
応じてコーヒーを手渡すアンナの様子が、少しおかしいことにオットーは気づいた。
「どうした、アンナ。母上に何か言われたか?」
「──いえ、大したことではないのですが」
「また、嫌みを言われたか」
沈黙する少女を見やって、オットーはため息をついた。そして、コーヒーを一口飲むと
「母上も、非難するなら私だけにしてくれればいいものを。私がそなたを一方的に想っているだけなのだからな」
「一方的になどと、そんな…! 確かに奥方様にはベルトルトの貴族との縁談を紹介していただきましたが、私はオットー様のお相手が決まるまではお傍におります」
「──今、ベルトルトの貴族との縁談と言わなかったか?」
アンナははっとなって黙り込んだ。それを見たオットーは
「母上は、何とかしてそなたとの仲を引き裂きたいらしいな」
ベルトルトは西南ライン地方にある諸侯国で、先代の頃から君主はブランデン大公が兼ねている。間に他の諸侯国がある飛び地のため、バーリガルドからは通常で一ヶ月近くかかっていた。この距離があれば、さすがに諦めるだろうと思ったらしい。
「オットー様、私はやはり──」
「そなたが案じることはない」
オットーは強い口調で言った。そしてコーヒーカップを置き、アンナの肩に手を載せると
「私に任せておけ。どうにかしてみせる」
宣言した。少女は恥ずかしそうに、だが笑顔で頷く。
翌日、宮殿のアルプレヒトが住んでいる一角に、オットーは参上した。
「殿下、結婚のお相手がお決まりだそうで、誠におめでとうございます」
ブランデン大公フリードリヒの長男・アルプレヒトは、この時十九歳。髪はやや薄めの茶褐色で、肌は白く一見して顔はかなり整っている。深みのある琥珀色の瞳で側近の青年貴族を見据え、無表情に応じた。
「まあな」
全く嬉しくなさそうな主君の様子に、オットーは気づいた。どう言っていいものか数秒ほど考えあぐねた挙げ句、
「あの、何かございましたか?」
アルプレヒトは軽く目を瞬かせた。そして瞬時に相手の真意を悟ると
「一度も会ったことのない女と結婚するんだぞ」
とだけ応じた。不機嫌そうにすら見える主君の様子に、オットーは思わず
「会ったことがある女と結婚したからと言って、幸せになれるとは限りますまい。特に恋人と引き離された場合には」
「──卿には、そういう恋人がいるのか?」
オットーは内心、ぎょっとした。この主君は、時として読心術者並みの洞察力を見せることがあるのだ。
「いえ、そういうわけではございませんが。一般論としてです」
「そうか」
否定をひとまず受け入れたものの、アルプレヒトは相変わらず笑いもせずに黙ったままだった。オットーは
「ご不満なのはよく分かりますが、ベーベルン侯と言えば北西ラインの有力諸侯でございます。フィランチェへの備えにもなりましょうし、第一大公殿下のご命令なのでしょう?」
「そうだ」
そう言って更に数秒黙り、オットーがまた言いかけたところで口を開く。
「言いたいことは分かっている。──フラウたちに言わねばならんな」
フラウとは、アルプレヒトの愛人たちのことである。この頃のブランデン宮廷では、ローテネルデ伯爵夫人やブリュッケン侯爵夫人など、若い何人かの夫人が彼の寝室に呼ばれて一夜を共にし、愛人と目されていた。とは言え彼らは臣下の貴族であり、互いに結婚する気はない。
「お相手のルイーゼ殿下は、物静かな方とのこと。相性が宜しければいいのですが」
「そうだな。それさえあえば文句はない」
相手の取りなすような口調にアルプレヒトはそう応じ、苦笑を浮かべた。いきなり父のフリードリヒに言われたからといって、そこまでこだわる必要は本来ないはずなのだ。
数分後、改めて祝いの言葉を述べたあと退出するオットーの背中を見やって、アルプレヒトは侍従のヨーゼフにこう指示した。
「オットーの恋人を、探してみろ」