銀と鉄の時代 外伝一 ウォルフ着任

   第一章 傅育官着任

 ウィーデンの王宮は、悲しみの喪服で廊下まで満ちあふれていた。
 国中の貴族や軍人たち、また諸外国の外交官が礼拝堂にある棺に近づき、十字を切って祈りを捧げる。棺の中にいるのは、十五か十六ほどの少年の遺体だった。
 ヨーゼフ・ルートヴィヒ・シュテファン・フォン・バーベンブルク。それが少年の名前であり、最初の名を取ってヨーゼフ王子と呼ばれていたこの少年は、時の国王アドルフと王妃ヨハンナの間に生まれた一人息子として、ライン王国と隣接するウンガリア王国の国王になるはずの人間だった。
 よって彼の病死は無論、内外に衝撃を与えたが、それによって直接的に運命を大きく変えられた者が喪服姿の来賓には含まれていた。
 その者の名前は、ヒルデガルド・フレア・フォン・ランベスク。この年十歳になるこの少女は、喪服姿で棺に花を供えながらも、目の前の少年の死が自分に及ぼす影響についてまだ理解していなかった。
 オイラープ暦一二三二年一月。空から降り積もる雪は、宮殿の庭を白くしながらもいっこうにやむ気配を見せなかった。

 それから二ヶ月近く経った、ある日のことだ。シュタイル公国の首都ムールベックの西にある宮殿の一室では、十歳ほどの少女が癇癪を爆発させていた。
「そんな難しい話、いきなり聞かされても分からないって!」
彼女は怒って、目の前にいる初老の男に本を投げつけた。
「ホウリツがどうのソシキがどうの、そんなの知らない! あっち行って!」
「で、ですがヒルダ殿下…」
落ち着かせようとする男に、少女は立ち上がって今度は紙束を投げつけた。
「いいから出て行って!! でないと殺すからね!!」
ひええ、と叫んで初老の男は部屋を飛び出した。少女はそれでも不満そうに
「ウィーデンから帰ってきてからあんなのばっかりで、エリーゼやマリアと全然遊べないんだから。つまんないったらありゃしないわ」
投げつけた紙束を拾い上げ、一枚破り取るとくしゃくしゃに丸めて投げ捨てる。くすんだ金髪が軽く揺れ、海を連想させる少し緑がかった蒼い瞳は、何を見るでもなく窓の外の遠くに視線を投げていた。
「つまんないの」
誰もいなくなった部屋で、このヒルダと呼ばれる十歳ほどの少女は一人そう呟いた。
 
 「ヒルダ、また先生を追い出したんだって?」
その日の夕食の席で、先ほどの少女は四十近い男にそう声をかけられた。
「だって、分からない話ばっかりするから」
少し間を置いて、彼女はそう応じた。今度は別の、三十前後の女性の声で
「だからと言って、物を投げつけていいというものではありません。あなたはいずれ王位を継ぐ身なのですから、品のないことは──」
「オウイヲツグ、オウイヲツグって、最近二言目にはそればっかりじゃないですか、父上も母上も! 遊びたくても全然遊べないし!」
少女はわめき散らした。そして不意に立ち上がり、呆気に取られる目の前の二人にぷいと背を向けて歩き出す。
「ヒルダ!」
「ヒルダ殿下!」
慌ててかける声も無視して、少女は小走りで食堂から退出した。先に声をかけた二人は、困惑した様子で顔を見合わせる。
 二人はシュタイル公爵アルベルトと、その夫人でライン国王アドルフの妹テンネル。そして立ち去った少女は、二人の一人娘であるヒルデガルド、通称ヒルダだった。

 ヒルダは不満だった。ついこの間まで自由に遊ばせてくれたのに、ウィーデンで従兄弟のヨーゼフが死んで葬式に行き、ムールベックに帰ってきた途端、遊び仲間だったエリーゼやマリアと十日に一度くらいしか会えなくなり、代わりに両親より遙かに年上の男たちが何やら難しい話を聞かせるのである。難しくて退屈な話の癖に欠伸をするとすぐ注意され、何かあるとすぐに「オウイヲツグ」だ。その言葉がそんなに偉いのか。
 部屋に戻り、ドレスを着たままベッドに座り込む。大きなため息をついた。何で私だけが、と思う。みんな遊んでいるのに。再び息をついた時、腹の虫が鳴いた。
「あー…お腹すいた」
さっきは食べ始める前に両親からあんなことを言われ、食堂から飛び出したので夕食は一口も食べていない。空腹感を覚えながら寝室で大人しくしていると
「殿下、お食事をお持ちいたしました」
部屋の外から、ヒルダには聞き覚えのある女性の声がした。
「ゾフィー?」
「はい。夕食をお食べになっていらっしゃらないとのことでしたので」
静かに言う。ヒルダは立ち上がって自分で扉を開け、この五十代半ばほどの侍女を通した。幾つか見繕ったらしい料理が、ゾフィーの押してきた台の上に並んでいる。
「ありがとう。じゃ、いただきます」
ヒルダはそう言って、一人で食べ始めた。

 ブリタイン王国。オイラープの西北に位置する島国であり、屈指の強国でもあるこの国では、大学教育が比較的盛んであり、ライン王国からも留学生が来ているほどだった。その中にケンフォード大学という古くからの大学があり、その一室では教授と、学生に見える二十歳そこらの青年が話し合っていた。
「ガートン卿、本日の御用は?」
「うむ。君に就職先を紹介してやろうと思ってな」
「就職先?」
濃い茶色の髪と瞳の青年は、目を瞬かせた。そして
「つい先月、教授の助手になることが決まったばかりですが」
「それはそうだが、もっといいところがあるのでな」
「もっといいところ、と言いますと?」
ガートン卿と呼ばれた教授の方は座ったまま、机の上から紙を取り出しつつ
「今年の一月に、ライン王国のヨーゼフ王子が薨去されたのは知っておろう」
「はい」
応じた青年に、ガートンは取り出した紙を広げて
「それに伴って、将来の王位継承者となられたヒルダ殿下。国王アドルフ陛下の姪に当たられるお方だが、その方の傅育官をシュタイル公国が探している」
「──つまり、私にそれに応募しろと?」
「ご名答」
ガートンは白い髭のある顔で、ニヤリと笑った。だが数秒後には笑みを消して立ち上がると、さっきから持っている紙に目を通し
「実のところ、条件がかなり厳しい。年齢は三十歳以下、出来るだけ若い方が望ましい。少なくともライン語とフィランチェ語が話せ、神学か法学を五年以上修めて出来れば博士号を取得し、身元が確かな者となっているんだ」
「三十歳以下で博士号取得、ですか」
大学で普通にやっていれば、博士号取得には三十を超える。どうやら向こうは天才を求めているらしい。
「君は先日、二十二歳の若さで博士号を取得した天才だ。もともとライン王国の人間だからライン語には問題ないし、数代続いた商人の出で身元も確か。打ってつけの人間だ」
「確かに条件には当てはまりますが──」
言いつつ、青年はガートン卿からその紙を受け取って読み始めた。少し経った後
「どうかね、ウォルフ君」
「面白そうですね」
青年の濃い茶色の瞳が、輝いている。本気で検討し始めた証だ。
 彼が気に入ったのは、紙に書かれたある一文──『結婚前の数年間のみならず、生涯に渡って公女ヒルデガルドを支え、適切な助言を行いうる方を望む』という、付帯的な条件だった。生涯に渡ってとはつまり、ライン王国の女王ヒルデガルドの側近という立場が、傅育官を勤めていればいずれ手に入ることを意味する。出世のためにブリタインの大学に来た彼にとって、これほど魅力的な条件はなかった。
「応募するなら推薦状を書くから、早めに言ってくれ」
「分かりました」
ガートン卿を見送った青年の名は、ウォルフガング・シェーラーといった。

 

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