銀と鉄の時代 第二巻 囚われの継承者

   第一章 仮面舞踏会

 ある、人気のほとんどない宮殿に、一台の馬車が走ってきて中に入った。
 庭を通り抜けて数分後、宮殿の正面玄関に直付けされる。玄関で待っていた一人の青年士官が馬車の扉を開け、中にいる人物に手を伸ばす。
 と、その手を払いのけるようにして、中から別の青年が降りてきた。その青年は降りたと同時に振り返り、改めて馬車の中に手を伸ばす。その手を伝って馬車から降りたのは、十五歳あまりのきらびやかな衣装を身に纏った少女だった。
 少女の名は、ヒルデガルド・フレア・フォン・ランベスク。シュタイル公国の若き女公爵であり、またライン王国の第一王位継承者でもあるヒルダが今、入ろうとしている宮殿は、ブランデン大公国の首都バーリガルドの郊外にある。ここに来たのが彼女の本意ではないことを示すように、出迎えの人間はその士官だけだった。

 それから二週間余りが経った、ある日のことだ。
「ヘル・シェーラー、シュタインベルク伯がいらしてますよ」
宮殿のある部屋で書類を読んでいた青年に、中年の侍女が声をかけた。男は中肉中背、顔は知的な雰囲気を漂わせており、人目を引くほど美男子でもないが悪くはない。髪はこの地域には珍しく濃い茶色で、瞳もほぼ同じ色だった。ウォルフガング・シェーラー、通称ウォルフ。彼もヒルダの傅育官として、バーリガルドに来ているのだ。
「シュタインベルク伯が?」
「ええ。話し合いたいことがおありだそうで」
「──分かった。お通ししてくれ」
ため息をついて立ち上がったウォルフの前に現れたのは、顔見知りの青年貴族だった。

 やり手の政治家であることを想起させる、鋭い蒼の瞳。背はむしろ低い方だが、その瞳は会う者を警戒させるに十分である。ウォルフは表向き平然と
「お久しぶりです、シュタインベルク伯」
作法に則った礼をするが、された側は大して興味を示さずに
「久しぶりだな、ヘル・シェーラー。最近どうだ?」
「相変わらず雑務に追われております。率直に申しまして、もう少し政治関係のことをこなす人が欲しいところです」
「そうか、大変だな」
頷くだけでそれ以上の言及はしない。本題に移った方が良さそうだと
「それで、ご用件は?」
「アルプレヒト殿下の代理で、ヒルダ殿下のご様子を伺いに来た。何でも体調があまり良くないという──」
「まだ、こちらでの生活に慣れていらっしゃらないのですよ」
ウォルフの応答に、シュタインベルク伯オットーは
「──ほう、慣れていらっしゃらない」
「ええ。ですから外にお出になるなどのご無理はさせられないのです」
穏やかな口調ながら、部屋の主はそう言い切った。オットーの目が厳しく光る。
「そんなにご無理なことか。かえって少しは外においでになった方がいいような気もするが」
「宮殿内でのご散策ならともかく、夜会などの席は何かと気を遣います。そうした席にいらっしゃって気の疲れが貯まられては普段の政務に支障が出ます」
「支障が出る、ということで言わせてもらえば」
と、オットーは言った。
「ヒルダ殿下がブランデンにいらして二週間、その間ずっとブルン宮殿内に閉じこもっておいでのせいで、諸外国からあらぬ疑いを持たれ始めている。程々にして貰わねば、こちらとしてはいい迷惑だ」
「──それは、そちらの勝手なご都合でしょう」
ウォルフは冷たく突き放した。相手が思わず声を荒げて
「何だと? 元はと言えばヒルダ殿下が──」
「我々をシュタイルにお帰しになれば、全て片づくことです。──幸い、そちらのおかげで裏切り者どもの処刑も全て完了いたしました。今のシュタイルは安全そのもの、もういつ殿下がお帰りになっても問題はないのです」
「──……」
言われた側は数秒ほど黙った。やがて不意にニヤリと笑うと
「ひょっとして、ヒルダ殿下のご体調が宜しくないと言うのは、ホームシックではあるまいな?」
「ホ、ホームシック?」
目を瞬かせていることからして、どうやらウォルフには予想外の質問だったらしい。これは違うな、とオットーは判断した。
「いや、例えばの話だ。──で、実のところ何が問題だ」
「──単に水が合わないと言うか──夜の寒さ、食べ物、全て違いますからね」
そこに、扉を叩く音がする。躊躇っているうちにそこが開いた。
「ウォルフ──?」
姿を見せたのは、十五あまりのあどけなさの残る少女だった。

 「どうしたの? 報告書の決裁が──」
「これはこれは、ヒルダ殿下」
先に応じたのはシュタインベルク伯オットー。その声に、やっと少女は彼の存在に気づいたようだ。自分の宮殿内にいることもあってかそれほど着飾ってはいないが、薄い青のドレスは清楚な雰囲気を持たせていた。髪はくすんだ金髪で顔立ちは整っており、瞳は少女自身見たことのないであろう海を連想させる。胸元には大粒の真珠で作られたネックレスが光り、アクセントになっていた。やや緊張した面もちで、その少女は
「何か用ですか、シュタインベルク伯」
「いえ、ヒルダ殿下のご体調が思わしくないと伺いまして、我がアルプレヒト殿下の代理としてお見舞いに参上したのですが──意外とお元気そうですな」
心持ち痩せたように見えなくもないが、ヒルダ殿下と呼ばれたその少女は肌の色、つやともに良好で、病気にはとても見えない。
「ええ、今日は割と…」
「殿下」
ウォルフが押し止めるように声を出した。
「報告書は後ほどお届けいたします。お戻りになってください」
「それはいささか困るな、ヘル・シェーラー。──我々としては、ヒルダ殿下に少々お伺いしたいことがあるのですが」
オットーが割って入る。そしてヒルダが判断する間もなく
「ヒルダ殿下はこのバーリガルドにおいでになって以来、一度もこの宮殿の外に出られたことがございませんが、それは何故ですか」
「何故、と言われましても、ここに来た当初は実際に体調が余り良くなかったのです。旅の疲れが出たのか、特に最初の数日は…」
「ですが今日、こうしてお会いいたしました感じ、それほど体調がお悪いとは──」
「私に何かあっては困ると、陛下からお言葉がございまして。それで大事を取っているのです。人前にそれと分かる姿で出るのは、やはり大変ですから」
話を聞いているオットーの目が、鋭く光った。
「ほう…。では、ヒルダ殿下であると誰にも分からなければ、人前にお出になっても良い、と?」
「──出る、と言うより混ざる、という感じですね。目立ちたくないもので」
「なるほど、承知いたしました」
それから世間話を幾つかした後、オットーは帰っていった。表の馬車まで見送ったウォルフは、戻って来ながら僅かに顔をしかめる。

 数日後、ヒルダ宛の招待状が届いた。
「仮面舞踏会の招待状ですよ。場所はブランデン公国大公付き首席秘書官、シュタインベルク伯オットー閣下の邸宅」
自分の主君の前でその招待状を一読した後、ウォルフは苦みを帯びた声で言った。
「どうする? ウォルフ」
声音を変えずにヒルダの問いに答えて言うには
「殿下のお心次第です。いらっしゃるもよし、これまで通りにいらっしゃらないのもよし。いかがなさいますか?」
「どうするもこうするも──」

 

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