銀と鉄の時代 第三巻 テュルク戦

   第一章 ハインリヒ

 シュタイル公国の首都ムールベックでは、破壊された城壁の修復工事が順調に進んでいた。馬車の通る道の周囲にある畑では農民たちが深々と頭を下げ、北のブランデンから七ヶ月ぶりに帰ってきた若き女公爵ヒルデガルド、通称ヒルダの一行を見送っている。帰り着いた宮殿の庭では雪がやっと完全に解けて花が咲き始めており、あたかも主君の帰りを待っていたかのような風情だった。
「ヒルダ殿下、よくお帰りで!」
「クリス!」
宮殿内に入ったヒルダを真っ先に迎えたのは、明るくよく通る男の声。ヒルダも思わず愛称でその名を呼び、見覚えのある顔の彼に駆け寄った。
 クリスティアン・サリエリ。去年ヒルダがまだムールベックにいた頃、ブランデン大公アルプレヒトとの会談中にいざこざを起こした張本人である。職業は宮廷音楽家で、彼女の音楽講師も五歳の頃から担当し、当然ながらヒルダの傅育官たるウォルフガング・シェーラーより付き合いは長い。
「ヘル・シェーラーに頼んで、夕食前にお歌の時間を一時間ばかり取らせていただきました。後ほどまたよろしくお願いします」
「あ、そうなの? じゃあ楽しみにしてるわ」
微笑して応じ、ヒルダは一礼して立ち去るクリスの、自分より低い背を見送った。
 教える人間が二人もいれば何かと対立しそうなものだが、ウォルフとクリスの関係はかなり良好な方だ。というのもウォルフは音楽がからきし駄目で、この方面に関してはクリスに任せるしかないといった状況であり、クリスはクリスで音楽以外のことはさっぱり分からない。加えて社会生活に支障を来すような非常識ぶりも時折見せるため、他のことは一切ウォルフが担当し、かなり分業してやって来た。
「ウソ発見器ですからね、ヘル・サリエリは」
かつてウォルフがそう表現し、ヒルダが思いきり顔をしかめたことがある。言い方に語弊はあるが、クリスは相手の声を聞いただけでその人物の精神状態が分かるという特技の持ち主で、ウォルフが立場上追及出来ないことでも、クリスにかかれば大抵のことは分かってしまうのだ。無論ウソ発見以外の応用範囲も広いため、傅育官着任当初はかなり助けられた経験があり、そういう意味でもウォルフはクリスと仲が良かった。
「あの、ヘル・シェーラーがお待ちいたしておりますが」
その方向を見ていたヒルダを、侍従が呼ぶ。それで我に返り
「はい、すぐ行きます」
と言って、奥に向けて歩き始めた。

 情報収集及び大臣たちとの打ち合わせという名目で、一足先に帰国していたウォルフは積極的に宰相のクラウチ伯爵や外務大臣グランジェとの話し合いをこなしていた。ヒルダが案内されて向かった先にはその三人が揃っており、帰国を祝う言葉を大臣二人から受けた後、早速詳しい情報を聞いたのである。
 状況は相変わらず複雑だった。ハインリヒ・フォン・カッセンが国王アドルフの庶子であることは間違いないものの、カッセン家自体が爵位も持たない小貴族であるため、ハインリヒ自体には国王以外の政治的後ろ楯はないに等しい。王妃ヨハンナは相変わらず完全無視、他にも今まで第一の愛人と目されていたシュロッターベック伯爵夫人レオボルディーネが憤慨し、カッセン家に関する悪評を広めている。
「我々が判断しかねているのが、国王陛下の意図でございます。あくまでも庶子として爵位と領地を与えるに留めるのか、それ以上のものをもお与えになるおつもりなのか」
それ以上のもの、すなわち王位継承権である。だが、オイラープでは嫡出子のみが王位継承券を持つとされているため、この場合には庶子を嫡出とするための複雑な手続きが必要で、まず王妃ヨハンナの同意がいるが、それは非常に難しいというのが宮廷でのほぼ一致した見方だった。というのも、南ラインの有力諸侯国であるローゼンハイムから出た王妃には独自の政治的後ろ楯があり、加えて法的観点からすれば、ヒルダの次に王位継承権を持つのはそのローゼンハイムを支配するヴィッテルス家の当主だからである。
「更に、ハインリヒ殿を王位継承者となさるような場合、宗教界の反発も避けられそうにございません。総合的に考えまして、この件に関しては、ヒルダ殿下は余りご自分から公式には発言なさらぬ方が宜しいかと存じます。貴族の対策は必要ですが」
ヒルダは頷き、話題を転じた。
「それで、テュルクは?」
「ウィーデンからの情報に依りますと、二十万の大軍が国境に集結する予定とか。六月にはブダを包囲するやも知れませぬ」
「分かったわ。そっちの方はウィーデンに行ってからね」
ここには十日余りしか滞在せず、下旬にはウィーデンに行くことになっていた。

 それから出立までの間、ヒルダはもっぱら政務に没頭していた。どこをどう調整したのか、二日に一度はクリスによる音楽の時間があるのだが、それ以外ではほぼ政務である。ウィーデンからの報告も直接聞き、特に王妃ヨハンナとの意見交換や彼女の実家であるローゼンハイムへの工作を重視。貴族や宗教界への工作も積極的に進めていた。
「シュロッターベック伯爵夫人へは、いかがなさいますか?」
「今まで通り進めて。ことによっては私が仲立ちをして、王妃陛下と仲直りさせてもいいから」
王妃と第一の愛人であるこの二人は、今まで反目し合っていた。ことに正式な夫であるシュロッターベック伯爵が重要な地位に取り立てられるようになると、宮廷内では事あるごとに両派に分かれて対立していたものだ。しかしこれでは、ハインリヒに漁夫の利を与えてしまいかねない。
「そうそう、前に手紙で送ったことの結果、分かった?」
バーリガルドでアルプレヒトからもたらされた情報について、更に詳しい調査をするように命じておいた。その結果である。
「はい。ヨハンナ陛下からの情報ですが、もしハインリヒ様が王位を継ぐことになった場合、フィランチェとしては反対せざるを得ないとの表明があったとか」
「そう。それで?」
「ローゼンハイムとしては、事あらば協力を要請したいと」
「分かったわ」
更衣室へ向かう廊下で、ヒルダは頷いた。ウォルフの報告を受けていたのだ。
「じゃあ、また後でね」
これからドレスを着て、ローゼンハイムの使節に会うところだった。彼女は執務中は特に派手な衣装を着ているわけでもないが、着飾る時は思い切り着飾るのだ。
 それから数日後、ヒルダはムールベックを出立し、南東の方角に向かった。そこにはバーベンブルク家領、更にはウィーデンがあるのだ。


 ヒルダがウィーデンへ向かうのは、これが四度目だ。最初に行ったのは七歳の時だから十年前に当たる。その頃はアドルフとヨハンナの間に生まれたヨーゼフ王子も健在で、ただ母のテンネルの里帰りについて行っただけというのが、記憶の中の実感だった。
 二度目は十歳になる直前の冬で、ヨーゼフ王子の葬儀に参列するためだった。国王夫妻の悲しみぶりは尋常ではなく、ウィーデン自体が重く沈んでいた。そんな雰囲気と共にヒルダがよく覚えているのは、シュタイルに帰るや否や今まで自由に出来ていた他の貴族令嬢たちとの遊びが一切出来なくなり、代わりにいきなり難しい講義が入るようになったことである。
 この状況の激変に、当時十歳前後のヒルダは強く反発した。講師たちには悪戯を仕掛けて追い出したり講義中にむやみに癇癪を爆発させたり、食事も両親と取るのを拒否し、自室で籠もって食べたり。それに困り果てた両親が招いたのが、当時ブリタインで天才と呼ばれるようになっていたウォルフだったのだ。
 彼の対応が良かったのだろう、ヒルダは次第に落ち着きを取り戻し、いつしかウォルフは常に傍にいて第一の側近と呼ばれるようになる。浮いた話は一切ないためつまらない人物と思われている節もあるが、彼にすればそうすることで自分の、引いては主君の身を守ろうとしたのである。
 そして彼も連れて最後にウィーデンを訪問したのが、三年前だ。その時はテンネルの里帰りとの名目だったが、十四歳だったヒルダは、アドルフから色々と政治や歴史のことについて質問を受けたのを覚えている。当時既に西南ライン地方へ攻め入っていたブランデンへの対応策も話し合われたようで、その後一年半ほどは国王もシュタイルも中立を保っていたが、昨年の一月にブランデンに宣戦布告すると同時にヒルダをグラッツ侯の館へ避難させた。結局、予想外の速度でシュタイルに攻めてきたブランデン軍にシュタイルは破れ、公爵夫妻は裏切り者によって殺され、その後新公爵になったヒルダは、紆余曲折を経て事実上人質としてブランデンに半年以上住まわせられることになった。
 ところが、国王アドルフが己の庶子たるハインリヒに王位を継がせるのではないかとの説が流れたことで、ヒルダはシュタイルに帰国を許されたのだ。そして王位継承に関する国王の真意を確かめるべく、今ウィーデンに向かっている。
 ヒルダはハインリヒのことは今年初めて知ったし、カッセン家の誰かの顔を見た記憶もない。その人物は宮廷の表舞台にも余り出ず、野心家と見られること以外はいまいち正体不明のままだった。稀に参加するパーティなどでは国王アドルフの傍にいるだけで、ほとんど無言のまま笑いもしないという。
「ローゼンハイムも、好ましく思っていないのは確かなのですが」
何しろアドルフが一切この問題について発言していないので、表向きの反応は控えめにせざるを得ない。多くの貴族や宗教界も同様だと、ウィーデンからの報告は語っていた。
「ただ、別にハインリヒ様を王位継承者になさる気がないのなら、混乱を避けるためにも陛下自らがそう仰るでしょう。それをなさらないということから」
「分かったわ。──一つ訊きたいんだけど」
ウォルフの発言を遮って、ヒルダは逆に真剣な表情で切り出した。
「ハインリヒが実際に王になるとして、私の立場はどうなるの?」
彼は詰まった。実を言うとそれこそが最重要問題なのだが、基本的な想定と対策だけは頭の中にあるものの、実際にどうなるかはアドルフとハインリヒ次第である。
「殺される可能性もあるわけね?」
重ねて問われ、数秒後
「率直に申しまして、ございます」
深刻な響きに、ヒルダは顔を背けて馬車の外を見やっていた。

 ムールベックを出て十数日後、ウィーデンを取り囲む城壁が見えてきた。もう五月上旬であり、春から初夏に移りつつある頃だ。
「ひとまず無事について、ほっといたしました」
ドロテーアが窓の外を見ながら言う。ヒルダはこれからのことに気が向いていて
「着いたらまず王妃陛下に拝謁して、それから駐ウィーデン大使のゲルトナー伯と夕食会だったわよね、ウォルフ」
「はい。本日はその二つだけでございます」
長旅の直後なので、用事は少なめにして、早めに休ませることにしていた。頷いて
「分かったわ。──国王陛下にお会いできないのが残念だけど」
「そう焦る必要もございますまい。当分の間、殿下はウィーデンにいらっしゃるのですから、拝謁する機会はいくらでもございます。陛下もお忙しいのでしょう」
肩を落とす主君に、シュールベルトが元気づけるように言った。
「それならいいけど」
応じて窓の外を見やった彼女は、それでもどこか不安げだった。

 

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