銀と鉄の時代 第四巻 冤罪裁判

   第一章 ウィーデン動揺

 ライン王国の国王家たるバーベンブルク家が支配する、ネストリファー公国の首都ウィーデンに、早朝にも関わらず東方のウンガリアとの国境から早馬が駆け込んできた。宮殿のある一室に入り、報告する。
「何だと!? 国境にブランデン軍二万が!?」
先王アドルフの庶子で現在ウィーデンを牛耳っているハインリヒの、実質的な参謀と言えるシュヴァルツェンベルク伯カールが、驚いた声を出す。
「はい。彼らはヒルダ殿下の護衛として、ウィーデンまで同行したいと申しておりますが、如何いたしましょうか?」
「認められるはずがなかろう」
シュヴァルツェンベルクの背後から、そう声が聞こえた。水色の瞳に端の釣り上がった細い目、青白い肌。ハインリヒ本人だ。
「ヒルダに伝えよ。ブランデン軍の同行は一切認めぬ。一人でウィーデンに来いとな」
「は、はい!」
伝えに来た兵士は敬礼を施して去っていった。そこにいた貴族の一人が、その後で
「恐れながら申し上げます。ヒルダ殿下の背後には、恐らくブランデン大公アルプレヒト殿下が──」
「北の人狼か」
ハインリヒは鼻で笑った。
「所詮狼ではないか。恐れるに足りん」
「ですが、現実に西南ライン諸侯の多くが」
「案ずるな、期限は明日だ」
十月十六日までにウィーデンに戻らなければ、ヒルダはバーベンブルク家の家督相続権と王位継承権を剥奪される。その期限が明日に迫っているのだ。
「明後日には、ヒルダの存在は無意味になる。そうなれば後は干渉出来まい」
自信ありげにそう言った、ハインリヒだった。

 「所詮狼、か。随分見くびられたものだな」
ウィーデンに潜ませている諜報から伝書鳩で届いたばかりの手紙を読んで、琥珀色の底知れぬ瞳に苦笑の色を浮かべつつ、ブランデン大公アルプレヒトはそう呟いた。そこに首席秘書官のオットーが現れて報告する。
「殿下、マウリッツ男爵が出立いたしました」
「分かった。予定通り、明日クラクフ軍以外の軍、八万を率いてブダを出る」
ブランデン軍三万、ウンガリア軍二万、他のライン諸侯国からの援軍三万の合わせて八万だ。そのうちウンガリア軍は、もともと先月初頭までのテュルク軍に対するブダ防衛戦でヒルダの指揮下にあった二万六千の大多数であり、六千はテュルク側国境の警備に回すためなどで残すことにしていた。ブランデン軍と援軍は、テュルク軍の包囲を解くためにアルプレヒトが率いてきたもののうち、ヒルダの護衛として国境にいるブランデン軍二万を除いた数だ。この他にクラクフ国王ソビエスキーの率いる二万がブダ解囲戦に加わったが、こちらは数日後に母国に帰る予定だった。
「かしこまりました」
オットーはそれで用事が済んだのか、帰ろうとした。そこに侍従のヨーゼフが駆け込んできて告げる。
「殿下。我が軍がまた騒動に巻き込まれているようです」
「またウンガリア軍とか?」
「いえ、今度はローゼンハイム軍とです」
援軍三万の一部である。兵力としては一万ほどで、一諸侯国が出したものとしては最大だった。
「分かった。すぐ行く」
アルプレヒトはそう言って立ち上がり、副官のシュワイツを連れて出て行った。それを見送ったオットーが、苦笑混じりに
「あの分では、思いやられるな。今後が」
「本当に。ウンガリア軍と違って、目的の共有も難しいですし」
「ローゼンハイムに限っては、そうでもないんだが」
オットーはそう言った。目を瞬かせるヨーゼフに
「現在のローゼンハイム公の妹君たる王妃陛下にも、ハインリヒが手を伸ばす可能性があると吹きかければいい。──問題は、むしろ我が軍だ」
殿下の御意志を理解していない者が多すぎると、この若い首席秘書官は続けた。
「今更ブランデンに帰るくらいなら、誰がこんなブダに来るものか」
最後に吐き捨てるように呟き、彼は立ち去ったのだった。

 外に待っていた兵士の案内でついた現場の広間は、罵声が響く中で割れたグラスや皿の破片が飛び散り、椅子まで飛び交う有様だった。その外側にいた巨漢、ウンガリア軍の司令官と言えるグルテンホフが、アルプレヒトの姿を見て最敬礼を施す。
「どうした、グルテンホフ」
「私が気づいた時には既に両者とも血が上っておりまして原因はよく存じませんが、ブランデン軍のヘルツベルク大佐とローゼンハイムのランツ大佐が争っておりまして」
「ヘルツベルクが?」
意外そうな表情をしたところに、ブランデン軍の将軍であるワイゼンフェルトとレストヴィッツが姿を見せた。レストヴィッツの方は、兵士に水を運んで来させている。
「申し訳ございません、殿下。ヘルツベルクはどうやら酔っていたようで」
憲兵的任務もこなすレストヴィッツが説明した。時刻は昼過ぎなのだが、昼食の席で飲んだらしい。
「酒席での騒ぎか」
「はい。ヘルツベルクはつい先ほどまで警備の任務に就いておりまして」
夜勤明けか。アルプレヒトは納得した。
「分かった。取りあえず頭を冷やさせろ」
「はっ」
最敬礼を施したレストヴィッツが、部下に合図して水をかけさせようとした瞬間
「元はと言えばローゼンハイム出のあの女が、自分の旦那も抑えきれんのが悪いんだ。それを棚に上げて我が殿下の下で動くのは嫌だ? ふざけるな!!」
顔の赤いブランデン軍の士官が、明らかに酔った声で怒鳴りつける。一瞬怯んだ隙に
「大体こっちだって、好きでここにいるわけじゃねえんだよ!」
椅子を蹴りつけ、再びランツと思しきローゼンハイム軍の士官に飛びかかる。その光景を見ていたアルプレヒトが
「構わん。両方とも取り押さえろ」
「あ、はい!」
レストヴィッツは急いで部下に指示し、程なく盛大な水しぶきの音と共に喧嘩している本人たちはずぶ濡れになった。一瞬呆然とした彼らに兵士が群がり、数人がかりで押さえつける。
「酔いが醒めたか、ヘルツベルク?」
両腕をそれぞれ別の兵士に取られ、うつむき姿勢で床に座っている自軍の大佐に、アルプレヒトはそう声をかけた。見上げた相手は二、三度目を瞬かせると
「あ、ア、ア、アルプレヒト殿下!!?」
仰天して声を出す。それで視線が、一気に彼に集中した。どよめきが上がる中、平然とこの士官を見下ろして
「何やら、まだ不満があるらしいな」
ヘルツベルクは、ガタガタと全身を震わせている。それを無視して主君は
「三日前、ウンガリア軍との騒ぎの際に言ったはずだ。『このブダを初陣で、五倍以上もの異教徒の軍勢を相手に二ヶ月半も守り抜いた、聡明にして勇敢なヒルデガルド殿下こそが女王の座に相応しい。ハインリヒのごとき卑劣で法を無視する臆病者に、王位を継ぐ資格はない』と。そのための軍事行動が明日始まるという日に、悶着を起こしてどうする」
「も…申し訳ございません!!」

 

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