銀と鉄の時代 第五巻 コルンにて

   第一章 予定の内と外で

 青い空が地上の新緑と共に映える、初夏の候。西南ライン地方にいるブランデン大公アルプレヒト親率のブランデン軍四万弱の陣地に、早馬が駆け込んできた。ウィーデンから来たというその士官は、折しも会議中だった本陣に通されると
「申し上げます! 六日前の五月七日未明、ウィーデン近郊のイザール河畔にてシュタイル女公ヒルデガルド殿下率いる軍が、ハインリヒ・フォン・カッセンの率いる軍を破りました!!」
「おお!」
幕僚の将軍たちのうち、騎兵指揮官で若手の出世頭のテオドールが喜びを満面に浮かべて立ち上がった。もう一人の出世頭、ヴァルテンブルクは安堵の微笑を浮かべ、年配のワイゼンフェルトも大きく頷く。その中をアルプレヒトは
「して、ハインリヒは?」
「残存する傭兵たち数千と共に、ラウドン将軍との合流を目指してこちらに向かっております。それで、捕虜の申しますにはハインリヒはフィランチェに援軍を要請したとか。そのこともあって」
「──今、何と言った?」
何か、とんでもないことをさらりと言ったような気がして、テオドールは聞きとがめた。その士官は目を瞬かせながら
「え? ──ああ、ハインリヒがフィランチェに援軍を要請したそうですが」
「何だと!!?」
今度はワイゼンフェルトが立ち上がり、大声を出した。アルプレヒトでさえ驚いて目を見開き、そのことを告げた連絡将校を琥珀色の瞳で凝視している。
「とにかくそれで、ヒルデガルド殿下は女王としての即位を後回しにしてこちらにいらしている最中です。詳しくはこれを!」
差し出したのは、ヒルデガルドに出した援軍を指揮しているシュヴェーリン元帥からの手紙だった。ヨーゼフが預かって主君に渡したそれを読む。
『餌はブランデン領西南ラインの割譲か』
王家であるバーベンブルク家領ではないため、ハインリヒとしてはフィランチェにくれてやっても懐が痛むことはない。だが本気で正統な王位継承者を主張していれば、例え自分の権力のほとんど及ばない諸侯国であっても、王国の領土を割譲するなどとそう簡単に言えるものではないだろう。彼女が自ら軍勢を率いてフィランチェ対策に来るのも、無理からぬことだった。
『加えてハインリヒが、こちらに来ているとなればな』
ハインリヒは、ライン王国の正統な王位継承者であるシュタイル女公ヒルデガルド、通称ヒルダを倒して王位に就こうとしていた。だが、王国の首都ウィーデン近郊でのヒルダとの戦いに敗れてしまい、自分の側についた将軍を頼って逃走中である。その将軍が西南ライン地方に来ており、ブランデン軍とコルン侯国という小さな諸侯国を挟んで対峙しているためだ。
 一般に、諸侯国と言われるのは「ライン王国内にある諸侯の国」のことで、それぞれ外交主権を有している。アルプレヒトの治めるブランデン大公国やヒルダのシュタイル公国、ライン王国内のバーベンブルク家領全体を称して言うネストリファー公国もその一つだった。ただ、諸侯国と言っても大小様々で、ブランデンは二年前に当時ネストリファーと同盟関係にあったシュタイルを破り、父の死後に後を継いだヒルダを事実上人質として自国に半年以上住まわせるなど、最大の諸侯国の地位を固めつつあった。
 だがその間に、当時の国王アドルフは庶子のハインリヒを宮廷に呼び寄せる。国王はハインリヒを跡継ぎの子がいないコルン侯国の後継者にするつもりだったが、ハインリヒは自ら国王になることを望んで様々な策謀を展開。病気のアドルフと臣下の面談を遮断して、ヒルダをライン王国外のバーベンブルク家領であるウンガリア王国に追い払い、攻めてきたテュルク軍と戦わせる。彼女がこれに勝つと、アドルフを暗殺してヒルダに濡れ衣を着せ、処刑しようとさえした。裁判で彼女の無実は証明されたが、その後の彼の暴発を恐れて即位式を半年間先送りせざるを得なかったほどだ。その挙げ句、女王に即位するべく再びウィーデンに来たヒルダと戦って敗れた。
「ハインリヒも、往生際が悪い。フィランチェに我がブランデン領西南ラインを割譲するとの条件で、援軍を要請しているそうだ。まだ交渉中らしいが」
ヨーゼフに手紙を渡しつつ、アルプレヒトは言った。皆が顔色を変える中で、副官のシュワイツが
「殿下、それは本当ですか?」
「本当だ。──とは言え、予定通りというか予定外というか、微妙だな」
アルプレヒトはそう呟いた。ヒルダがこちらに来るという一面だけを見れば予定通りなのだが、その理由と周りの状況が完全に予定外なのである。
「落ち着き払っている場合ではございませんぞ、殿下! フィランチェが攻めてくるかも知れぬという時に!!」
不満ありげに言うワイゼンフェルトに、彼は応じた。
「分かっている。──そろそろ実行させるか」
離れた席に座っているオットーを見やって、一つ頷く。彼も即座に気づいて応諾の合図を送り、手元の書類をめくり始めた。

 フィランチェ王ルイ・ジョゼフは、ハインリヒの提案に乗り気だった。だが、陸軍大臣ルーヴォワやシャミヤール将軍などが反対し、決定が遅れていた。
「ハインリヒなど、母親は下級貴族の娘であって、所詮は愛人の子に過ぎません。確かに西南ラインは先王陛下の御代より我が国が欲していた土地ではありますが、だからと言ってハインリヒに、ライン王国の国王になる権利を認めていいはずはございません! これは王位継承に関する祖法に反しますぞ!」
「分かっている。そうは言ってもこれは、千載一遇の好機だ」
次の儀式のある広間に向かう廊下で、ルーヴォワの反対意見を聞いたルイ・ジョゼフはそう応じた。シャミヤールなども後に続いている。
 ブランデン領になって以降、西南ライン地方の防衛体制は以前とは比較にならないほど堅固になった。以前は幾つもの諸侯国が存在し相互に対立もしていたため、フィランチェの進出も容易で、隙を見ては一万程度の軍で占領するという形で中小の諸侯国を獲得することが出来たのだが、この数年はライン王国東部やウンガリアに主力が行っているにも関わらず、国境の警備に隙さえも見当たらない。かと言って大軍を差し向けると、ブリタインなども干渉するだろうから難しい。ブランデンが軍勢をハインリヒ支持派の対策に向ければ、国境に隙が出来てこちらの占領もしやすくなるだろう。
「であれば、せめてハインリヒが国王になる件とはお引き離しなさって下さい。ブランデン軍の隙をついて西南ラインを占領する、それだけでいいではございませんか。それに、ローゼンハイムとの協力関係にもひびが入りかねません」
「うむ…。しかし…」
顎を撫でながら、ルイ・ジョゼフは考え込んだ。昨年、ライン王国の王妃ヨハンナの実家であるローゼンハイムに対し、フィランチェはハインリヒの即位に反対すると言明している。ここでハインリヒ側につけば裏切りと取られるだろうし、それは今後の対ライン王国の外交政策にも影響する。そこにシャミヤールが
「我々が国境に軍を配置しておけば、ブランデンはそれに対応して幾らかの部隊を残さざるを得ますまい。そのことでハインリヒ側とブランデン軍の兵力差を、縮めることも出来ましょう」
「しかし、それだけでハインリヒが勝てるか?」
実はこの時、まだ彼らはヒルダ率いる混成軍がハインリヒ軍を倒したことを知らない。だが、ブランデン軍の精強さは数年前から畏怖を伴って国内に伝わり、知られていた。従ってブランデン軍がヒルダ側を支援している以上、ハインリヒがいずれ負けるだろうことは予想されていた。重臣たちの反対もそれが最大の要因なのだが、ブランデン領西南ラインの幾らかでも獲得するためには、ハインリヒが負けっ放しでは困るのだ。
「勝てずとも構いませんから、出来ますれば今回は傍観するだけにしていただきたいと存じます。また別の機会もございましょうから」
「ふむ…」
大臣の言葉に、広間に入る扉の前で立ち止まったルイは不満そうだった。それを見て取ったシャミヤールは
「では、義勇軍という形で、ハインリヒに幾らか部隊を出しましょう。ただし、主力はブランデン領西南ラインの奪取に専念させます」
義勇軍とは志願者によって編成された軍隊で、正規軍ではない。つまり、建前上ハインリヒを支持する個人が編成したことにして、国家としてハインリヒの王位継承を支持するのではないとの立場を取りつつ、彼を支援するための方策だった。
「そうだな。その旨、使者に伝えておけ」
ルイはそう言って、広間に入った。

 ライン王国内の諸侯国の一つで西南ライン地方にあるコルン侯国では、先の侯爵であるゲオルクの死によって継承問題が発生し、緊張が高まっていた。ゲオルクには子がおらず、後を継いだのは遠縁の貴族であるヨハンだったのだが、昨年九月に死去した国王アドルフが、自分の庶子であるハインリヒをコルン侯にしようとしていたことが判明した。
 ハインリヒは自分に継承権があると考えて兵を送ったのだが、コルン侯国に隣接して領土を有するブランデンが異議を唱えて自軍を召集し、両軍はコルン侯国を挟んで睨み合うことになった。北西側国境のすぐ向こうでは、大公アルプレヒトの率いるブランデン軍四万が駐留し、南東の国境から半日ほど歩いたところにはネストリファー軍のラウドン将軍率いる二万の軍勢があるのだ。更に、広さとしてはシュタイルの半分以下しかない国内に二万もの傭兵がいることが、更なる緊張を煽っている。
「ウィーデンの方では、ヒルダ殿下がハインリヒをお破りになった模様です」
入ってきた若い書記官が、手元の書類を見ながらそう告げた。上司たちはどよめいて
「本当か、それは?」
「はい。在ウィーデンの大使からの情報です。──ただ…」
「ただ?」
書記官は言いにくそうに数秒ほど黙っていたが、
「ハインリヒ様はラウドン将軍らと合流するべく、残存兵力数千と共にこちらに来られており、その後を追って、ヒルダ殿下もお手持ちの全兵力を率いてこちらにいらしております」
「な…!?」
室内には大臣もいるが、立ち上がったきり絶句して言葉にならない。数秒して
「ハインリヒがこちらに来るとなれば、戦争は避けられぬではないか!」
机に拳を叩きつけてそう叫ぶと、崩れ落ちるようにうなだれて座り込む。こうなったら神にすがるしかないと言わんばかりに祈りを捧げる者もいる中、
「今こそ、例の計画を実行に移す時では?」
と、大臣の隣にいる貴族が発言した。
「ヒルダ殿下がこちらに軍を率いていらしている今こそ、侯爵としてお迎えする好機と言えます。ハインリヒの軍隊は合わせて二万数千、他方でヒルダ殿下のもとには戦いの前で四万五千の兵力があり、今後この差は開く一方でしょう。加えてヒルダ殿下ならば、ブランデンに勝手なことはさせますまい。我々の命と財産の安全も守れましょう」
「確かにそれはそうだが、北の人狼はヨハン閣下追放に伴う我が国の混乱を口実に侵入し、占領してしまうだろう。迂闊なことは出来ぬ」
政権転覆の準備は八割方出来ており、実際に動員して命令を下すだけのところまで来ているのだが、ブランデンの動向が最大の懸念材料なのだ。まだこの頃、ハインリヒがフィランチェに同盟を提案したという情報は彼らには届いていない。
「ブランデンに干渉せぬよう約束させたとて、裏切られるやも知れぬ。我々の安全のためにやるのだ、より有利な状況でやらねば意味がない」
そう言って、大臣のアイスペルンはため息をついた。周囲の者たちはそれを見て、互いに顔を見合わせて密かに目配せした。

 

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