第一章 改革の日々
ライン王国の女王となり、バーベンブルク家の全所領を相続したヒルデガルド一世ことヒルダは、抜本的な国制改革の必要性を感じていた。即位直後のオイラープ暦一二四〇年十一月の時点で、先の国王アドルフの私生児たるハインリヒが未だに捕まっておらず、自分の命令が十分に地方に行き届いていないのは明白だったし、これから捕まったとしてもそれで終わりではない。その後にはもっと強大な敵──「北の人狼」ことブランデン大公アルプレヒトとの戦いが予想されていた。
それがどういう形になるかは分からないが、あの男は明らかにライン王国の覇権を狙っている。だが、ヒルダは女王としてそれを認めるわけにはいかなかった。外交や謀略も入り交じった総力戦を覚悟していたが、決着がつくまでには恐らく実際に血が流れるだろう。従って改革の最終目標は、ブランデンに勝てる軍を育て上げることだった。そのためには金がいる。
「宮廷内の無駄な経費の削減はもちろんなさるべきですが、まずは改革後の望ましい軍のあり方を考えなければなりますまい。陛下がブランデンに勝てる軍をお育てになるおつもりならば、常備軍の規模を増やし、臨時の傭兵は補助的なものに留めるべきでしょう。従いまして現在、戦費は戦争の際の臨時税に頼っておりますが、これを改めて臨時税を廃止し、平時の税を増やすべきと存じます」
傅育官のウォルフことウォルフガング・シェーラーは、濃い茶色の瞳に思慮の色を浮かべつつ、王宮の廊下を歩きながらそう意見を述べた。更に
「無論、軍そのものの装備や訓練の改善も行わねばなりませんが、そちらは当面ダウン将軍やグルテンホフ将軍にお任せになって構いません。ヒルダ陛下はまず内政改革を行うべきと存じます」
「分かったわ」
ヒルダは頷いた。改革には優先順位があり、それぞれに専門分野もある。今は専門外の分野に口を出す時ではない。
「それともう一つ、大事なことを申し上げますが」
「何?」
目を瞬かせて、彼女は訊いた。その緑がかった蒼の瞳を見つめながら、ウォルフは
「今は余りブランデンへの敵意をあからさまになさいませぬよう、お願いいたします。情勢の変化によっては、また手を結ばねばならぬこともございましょうから」
「──そうするわ」
渋々といった様子で、ヒルダは同意した。
「やはり、ブランデンの軍規はオイラープで一、二を争う厳格さだな」
宮殿内の執務室で本を読んでいたダウンは、軽く息をついてそう呟いた。それぞれのページには、赤い線が幾つも引かれている。
ハインリヒ相手の戦役ではさほど目立った活躍のなかったダウンだが、軍制度の改革や新たな規範の制定には積極的で、一年後の報告を目標にした研究の中心となっていた。グルテンホフは軍の訓練に集中し、デュルケールやハラー共々各地の連隊を視察して回っている。彼らはいずれも戦役前より一階級昇進し、更に多額の報奨金が出ていた。
「シュタイル軍での実施状況と問題点をグルテンホフに訊いて、それからだ」
ダウンは以前より白髪の増えた頭を上げ、コーヒーを口に含んだ。
一方、そのグルテンホフは、出張先の連隊の駐屯地での夕食会に、准将に昇進したばかりのハラーと共に出席していた。相手の話が終わると、底の方に少しだけワインが残っているグラスを片手に言う。
「そうか、分かった。ヒルダ陛下に必ず申し上げるから、取りあえず頑張ってくれ」
「はい!」
連隊長は敬礼した。グルテンホフは斜め後ろにいた若い准将を振り返り
「結構、色々と問題点が出てきたな」
「規律の厳正にして平等な運用、全国的な軍事行政を統合して扱う機関の設立、訓練の強化と新兵器の導入、幹部を養成するための学校建設、徴兵の効率化と兵士の質の改善、兵士の数そのもの、特に砲兵の増強。かなり大変なことになりそうです」
「特に軍事行政機関の設立は急務だな。ラウドンやガブレンツの再来は避けねばならん。他のことはやれることからやるとするか」
それがなかったばかりに、ラウドンやガブレンツが勝手に兵士を集めてもどうすることもできなかったのだ。兵士の徴募や運用・配置は中央が管轄すると決めれば、彼らのやったことは即ち違法となり、それ自体で処罰が可能になる。同意したハラーに対し、グルテンホフは更に
「差し当たっては訓練の強化からだな、俺たちとしては」
「そうですね」
ハラーは頷き、同意した。
こうして改革は始まった。まずはきちんと支出を記録させることで宮廷内の無駄な出費を削減し、視察などに同行する人数も六十人前後に減らす。そのうち護衛のための兵士が三分の二を占め、文官や侍従などは約二十人に過ぎない。将来的にはもっと減らす予定だが、ハインリヒによる暗殺計画の懸念があるために今はこの程度となった。
浮いた金はほとんど全て、軍事費に回す。西南ライン地方にあったコルン侯国の売却代金として今年ブランデンから入ってきた金のうち、三分の二はコルン侯爵家の代わりの土地の提供費と報奨金に消えたが、その残りも合わせてまずは歩兵三個連隊を増設した。これにシュタイル軍の連隊長を引き抜いて当て、厳しい訓練を施して育成することにする。
そして一二四一年になり、税の増収に向けた動きを本格的に始める。当初ヒルダはこれまでの戦争時の臨時税分を単純に平均化した額を増やすつもりだったのだが、春になって気になる情報が意外な所から入ってきた。
「コルンの者たちが、我々の頃の二倍から三倍の税を取り立てられているようです」
執務室に来てそう告げたのは、先代のコルン侯爵夫人で現在はリンツ伯爵夫人と呼ばれているヴィルヘルミーネだった。ハインリヒに味方して財産を没収された貴族たちの領地の中から、幾つかの村を与えられてリンツ伯爵家を名乗り、元コルン侯のヨハンに経営を任せて自身はウィーデンに滞在している。
「何でもブランデンの役人どもが勝手に村々を測量して回ったり、自警団をなくして町や村の税額を倍増させたりしている模様です。しかもその額は、毎年ほぼ固定されているとか。かなり厳しい状況のようです」
ヒルダとウォルフは、顔を見合わせた。相手は背後に控えている者に視線を向け
「詳しくはこの者にお訊き下さい。ハウクヴィッツと申しまして、コルン侯国の貴族の一人です」
紹介されたのは、四十代半ばの中年貴族だった。整ってはいるが地味な服装で、顔もさして特徴はないが額にしわがある。
「ハウクヴィッツ、と申しましたね」
「はい。女王陛下には、お初にお目にかかります。どうかお見知りおき下さい」
「こちらこそ。それで、伯爵夫人の言ったことは本当なのですか?」
ヒルダの問いに、相手は頷いた。そして語るには、ヨハンとヴィルヘルミーネがいなくなってからブランデンの役人たちが大量に入ってきて、君主家の直轄領のみならず貴族の領地まで、測量と人口調査が行われた。大部分の者は測量が済むと帰っていったのだが、今になって去年の倍の税金を払え、更に自分の領地から兵士を十人出せと言ってきた。
「一体何を根拠に、そんな負担をしろと?」
ヒルダは驚いて訊いた。ハウクヴィッツが答えて言うには
「彼ら曰く、測量と人口調査の結果だそうです」
西南ラインの他の諸侯国でも似たような状況だったようだが、測量と人口調査で住民が負担すべき数量を一方的に割り出して、住民側の要求を考慮せずに取り立てる。自警団なども最小限度に留められ、例えば市民たちが金を出して傭兵を雇い、町の警備に当たらせるのは禁止された。そしてその分も税金として取り立て、それを経費にしてブランデン軍が駐留しているらしい。
「兵士の提供にしても同様で、何でもブランデンでは徴兵区が一個連隊ごとに割り当てられ、そこから兵士が徴集されるそうです。先ほどの人口調査の結果で村ごとの兵士の数が決まり、旧コルン侯国からは総計で七百人余りを出すことになりました」
「一個大隊、ということですか」
今度はウォルフが訊いた。ハウクヴィッツは少し首をひねった後
「私はブランデン軍の編成はよく存じませんが、多分それくらいにはなるでしょう」
「分かりました。──ヒルダ陛下」
ウォルフは主君に向き直り、提案した。
「この方のお話は私が詳しく伺っておきますので、そろそろ政務にお戻りになって下さい。確かこの後、クラウチ伯爵とお会いになるのでしょう」
シュタイル公国の宰相として長い間留守を預かっていたクラウチは、ヒルダの即位に伴ってウィーデンに来ていた。役職は商工務省の局長で、内陸の商業国家の宰相だった彼は適材と思われた。
「そうだったわね。──後ほど私もまた話を聞きたいとは思いますが、今はこの辺で」
「私たちが別室に参りますので、陛下はここにいらして下さい」
ウォルフの言葉に、主君は頷いた。そこにヴィルヘルミーネが
「私はどうすればいいのです?」
「ご自由になさって下さい。聞かれて困るような話ではないでしょうから」
後半はハウクヴィッツの方を見やりながら応じる。ところがその相手が
「いえ、出来れば傅育官殿と二人きりで話がしたいのですが」
ヴィルヘルミーネは見る間に不機嫌になった。だがこんなことで不満を言うのもなんだと思ったらしく
「分かりました。出ましょう」
元臣下の男を軽く睨みながら、執務室を出た。それを見送って、ウォルフとハウクヴィッツも出る。